ART
伝説のアートスペースを率いた小池一子の仕事|青野尚子の今週末見るべきアート
| Art, Design | casabrutus.com | text_Naoko Aono editor_Keiko Kusano
1959年からコピーライター、クリエイティブ・ディレクターとして活躍し、1983年からは〈佐賀町エキジビット・スペース〉を主宰していた小池一子。後進の多くのクリエイターたちに影響を与えている小池が今、考えていることを聞きました。
デザインとアート、近いように見えるけれどその両方でプロフェッショナルな業績を積み上げている人はそう多くない。小池一子はそんな稀有な才能に恵まれた一人だ。半世紀以上にわたる彼女の仕事を紹介する『オルタナティブ! 小池一子展 アートとデザインのやわらかな運動』が東京・神田の〈アーツ千代田 3331〉で開かれている。
展示は「中間子」というタイトルの「展示室1」から始まる。「中間子」とは物理学者、湯川秀樹が陽子と中性子の間を行き来する、当時は未知の物質を中間子と名づけたことからとったもの。湯川博士はこの理論で日本初のノーベル賞を受賞した。この展示室に並ぶ編集、翻訳、コピーライト、企画、キュレーションといった仕事はまさに「中間子」と呼ぶにふさわしい。田中一光、石岡瑛子、三宅一生といった唯一無二の才能を持つ人々をつなげる。彼らが作り上げたものと読み手・受け手とをつなげる。そんな「中間子」としての小池の役割が浮かび上がる。
「展示室2」には小池が立ち上げに関わり、今もアドバイザリーボードをつとめる「無印良品」のポスターなどが展示されている。今では「MUJI」として世界中で愛されるこのブランドは1980年に始まった。小池はコピーライターとして「愛は飾らない。」といった作品を発売当時から生み出している。
「展示室2」には小池が立ち上げに関わり、今もアドバイザリーボードをつとめる「無印良品」のポスターなどが展示されている。今では「MUJI」として世界中で愛されるこのブランドは1980年に始まった。小池はコピーライターとして「愛は飾らない。」といった作品を発売当時から生み出している。
小池のスタートラインは大学卒業後、グラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナーの堀内誠一のスタジオに入ったことだった。
「大学では演劇に夢中になっていたのだけれど、劇団や美術館に就職するのはどうなのかな、と思っていたんです。そんなとき伝手があって、グラフィックデザイナーの堀内誠一さんが中心のスタジオ、アド・センターに行くことになった。私は秘書として入ったんだけれど、当時のアド・センターには奈良原一高さんや東松照明さんたち、あっと思うような人たちが入れ替わり立ち替わり来ていたんです。そんな中で、私にできる仕事はビジュアル表現に伴走することかな、と思った」
小池はアド・センターに2年間、在籍したのち、独立してアートディレクターの江島任(たもつ)、高野勇と会社を設立した。そこでは江島がデザイン、小池がコピーを担当してファッション誌の編集などを手掛ける。
この頃に森英恵から依頼されて制作した「森英恵流行通信」は世界でも珍しい、出版社ではなくファッション・メゾンが発行するメディアだった。そのほか西武百貨店やPARCO、西友の広告やコピーライト、アイリーン・グレイら女性クリエイターを紹介する本の翻訳、演劇などの分野で活躍する。
これら広告や編集の現場で小池は石岡瑛子や山口はるみら、強い個性と高い創造性の持ち主たちと協働する。彼らとぶつかりあったりすることはなかったのだろうか。たとえば「無印良品」を始め、多くの仕事をともにしたグラフィックデザイナー、田中一光について小池はこう語る。
「一光さんとはウマが合うというと僭越だけれど、興味を持つ世界が一緒だった。あの頃、60年代後半から70年代にかけてはサブカルチャーが盛んな時期でしたから、一晩にバーやクラブを2軒も3軒もハシゴして。一光さんとはなんとかして自分が見たいイメージを探し出し、創り出してきました。『大判グラビアで動いている、舞踏会でうわーっと回ってる写真を作りたい』と言って米軍の司令官のパーティに潜り込ませてもらったり。一光さんだけでなく、こんなふうに一緒にものを見て発展させる、そんなものづくりができるユニットに恵まれましたね」
「大学では演劇に夢中になっていたのだけれど、劇団や美術館に就職するのはどうなのかな、と思っていたんです。そんなとき伝手があって、グラフィックデザイナーの堀内誠一さんが中心のスタジオ、アド・センターに行くことになった。私は秘書として入ったんだけれど、当時のアド・センターには奈良原一高さんや東松照明さんたち、あっと思うような人たちが入れ替わり立ち替わり来ていたんです。そんな中で、私にできる仕事はビジュアル表現に伴走することかな、と思った」
小池はアド・センターに2年間、在籍したのち、独立してアートディレクターの江島任(たもつ)、高野勇と会社を設立した。そこでは江島がデザイン、小池がコピーを担当してファッション誌の編集などを手掛ける。
この頃に森英恵から依頼されて制作した「森英恵流行通信」は世界でも珍しい、出版社ではなくファッション・メゾンが発行するメディアだった。そのほか西武百貨店やPARCO、西友の広告やコピーライト、アイリーン・グレイら女性クリエイターを紹介する本の翻訳、演劇などの分野で活躍する。
これら広告や編集の現場で小池は石岡瑛子や山口はるみら、強い個性と高い創造性の持ち主たちと協働する。彼らとぶつかりあったりすることはなかったのだろうか。たとえば「無印良品」を始め、多くの仕事をともにしたグラフィックデザイナー、田中一光について小池はこう語る。
「一光さんとはウマが合うというと僭越だけれど、興味を持つ世界が一緒だった。あの頃、60年代後半から70年代にかけてはサブカルチャーが盛んな時期でしたから、一晩にバーやクラブを2軒も3軒もハシゴして。一光さんとはなんとかして自分が見たいイメージを探し出し、創り出してきました。『大判グラビアで動いている、舞踏会でうわーっと回ってる写真を作りたい』と言って米軍の司令官のパーティに潜り込ませてもらったり。一光さんだけでなく、こんなふうに一緒にものを見て発展させる、そんなものづくりができるユニットに恵まれましたね」
小池が広告などから展覧会のキュレーションへと仕事の幅を広げていった、その大きなきっかけに1973年にニューヨークの〈メトロポリタン美術館〉で開かれた『インヴェンティブ・クローズ』展がある。『ヴォーグ』などで名を馳せた伝説のファッション・エディター、ダイアナ・ヴリーランドが監修した、20世紀前半のファッションに焦点をあてた展覧会だ。この時代はファッションの一大変革期だ。たとえば19世紀までの女性は男性から見られるものだったけれど、20世紀に入って技術革新や都市化が進むと、シャネルが地下鉄で通勤する女性のための服をつくる、と宣言してシャネル・スーツが生まれる。
「『インヴェンティブ・クローズ』展はそういった、街や社会の変化が衣服をどのように改革したかを時代と向き合う視点から構成した画期的な展覧会でした」と小池は言う。
この展覧会を日本でも開きたい。ニューヨークでこの展覧会に大きな衝撃を受けた三宅一生と小池の熱意は染織の伝統を誇る京都で実を結ぶ。財界や学界の協力も得て1975年、〈京都国立近代美術館〉で開催された展覧会『現代衣服の源流展』では田中一光が空間構成から告知ポスターやチケットのグラフィックまでを一貫して手がけ、山口はるみのシンボルマークなどと合わせて「一つの線を出す」(小池)ことに成功した。
「『インヴェンティブ・クローズ』展はそういった、街や社会の変化が衣服をどのように改革したかを時代と向き合う視点から構成した画期的な展覧会でした」と小池は言う。
この展覧会を日本でも開きたい。ニューヨークでこの展覧会に大きな衝撃を受けた三宅一生と小池の熱意は染織の伝統を誇る京都で実を結ぶ。財界や学界の協力も得て1975年、〈京都国立近代美術館〉で開催された展覧会『現代衣服の源流展』では田中一光が空間構成から告知ポスターやチケットのグラフィックまでを一貫して手がけ、山口はるみのシンボルマークなどと合わせて「一つの線を出す」(小池)ことに成功した。
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青野尚子
あおのなおこ ライター。アート、建築関係を中心に活動。共著に『新・美術空間散歩』(日東書院新社)、『背徳の西洋美術史』(池上英洋と共著、エムディエヌコーポレーション)、『美術でめぐる西洋史年表』(池上英洋と共著、新星出版社)。
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