CULTURE
【本と名言365】猪熊弦一郎|「家具は生きている。…」
February 9, 2024 | Culture, Art, Design | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。昭和を代表する画家、猪熊弦一郎は、作品のみならず、ライフスタイルまでいまも人気を集める人物だ。そんな猪熊が語ったものを慈しむ視点とは。
家具は生きている。そして人々の愛情を求めつつ毎日を生きている。
東京、パリ、ニューヨーク、ハワイを拠点に作品と向き合い続けた画家、猪熊弦一郎。地元香川ではいまも「いのくまさん」の愛称で親しまれ、同県の〈丸亀市猪熊弦一郎現代美術館〉は猪熊作品のコレクションとともに現代美術を紹介することで国内外から来場者を集める。三越のためにデザインした日本の百貨店初のオリジナル包装紙《華ひらく》はリニューアルされた現在も愛され、上野駅構内の大壁画《自由》、東京会館新本舘のモザイク壁画《都市・窓》やシャンデリア《金環》などは、変わらず街に彩りを与え続けている。
猪熊は1902年、香川県高松市生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、1938年から1940年まで、フランスでアンリ・マティスに師事した。戦後、ふたたびパリを目指して日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれてそのままおよそ20年にわたって滞在。ここで独自の作風を打ち立てた。しかし病をきっかけにニューヨークのアトリエを引き払い、冬はハワイ、他の季節は東京で制作するようになる。1991年に〈丸亀市猪熊弦一郎現代美術館〉が開館し、1993年に亡くなった。
猪熊を知る多くの人々が、誰でも分け隔てなく接する人物だったと評する。そして夫妻ともに面倒見が良く、自宅やアトリエを訪れる人も絶えなかった。東京の自邸は建築家の吉村順三によるもので、没後30年を超えたいまも、その住まいや暮らし向きはたびたびメディアに紹介される。『画家のおもちゃ箱』は、アトリエや住まい、そして収集品の数々を取り上げた写真とともに猪熊が洒脱な文章を寄せたエッセイ集だ。たとえばダイニングテーブルは、ニューヨーク時代に購入したポール・ケアホルムのものだと書く。「テーブルにはいろんな歴史がきずになったり、しみになったりして、残っている。飯を食べたり、たばこを吸っていて焼け焦げを作ったり、この上で絵を描いたり、そんな歴史がこのテープルには残っているのだ」といい、その思い出から東京までわざわざ持ち帰ったという。
「私達の本当に良き友として、あるものはまるで恋人のよう」だと、猪熊は収集物を表現する。旅から戻ると持ち主の愛情が感じられなかったモノたちは瀕死の状態になってしまうとし、それら一つひとつを猪熊が手に触れ、目で撫でることで蘇生するのだと猪熊は書く。人とモノの両者に愛が通っていたというのは、まさにモノを愛した猪熊らしい考えだろう。猪熊にとって椅子もテーブルもその他すべてのものも生きているものであった。「家具は生きている。そして人々の愛情を求めつつ毎日を生きている」。だからこそ彼が愛した家具や雑貨は主を失ったいまも唯一無二の輝きを放ち続ける。
東京、パリ、ニューヨーク、ハワイを拠点に作品と向き合い続けた画家、猪熊弦一郎。地元香川ではいまも「いのくまさん」の愛称で親しまれ、同県の〈丸亀市猪熊弦一郎現代美術館〉は猪熊作品のコレクションとともに現代美術を紹介することで国内外から来場者を集める。三越のためにデザインした日本の百貨店初のオリジナル包装紙《華ひらく》はリニューアルされた現在も愛され、上野駅構内の大壁画《自由》、東京会館新本舘のモザイク壁画《都市・窓》やシャンデリア《金環》などは、変わらず街に彩りを与え続けている。
猪熊は1902年、香川県高松市生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、1938年から1940年まで、フランスでアンリ・マティスに師事した。戦後、ふたたびパリを目指して日本を発つが、途中滞在したニューヨークに惹かれてそのままおよそ20年にわたって滞在。ここで独自の作風を打ち立てた。しかし病をきっかけにニューヨークのアトリエを引き払い、冬はハワイ、他の季節は東京で制作するようになる。1991年に〈丸亀市猪熊弦一郎現代美術館〉が開館し、1993年に亡くなった。
猪熊を知る多くの人々が、誰でも分け隔てなく接する人物だったと評する。そして夫妻ともに面倒見が良く、自宅やアトリエを訪れる人も絶えなかった。東京の自邸は建築家の吉村順三によるもので、没後30年を超えたいまも、その住まいや暮らし向きはたびたびメディアに紹介される。『画家のおもちゃ箱』は、アトリエや住まい、そして収集品の数々を取り上げた写真とともに猪熊が洒脱な文章を寄せたエッセイ集だ。たとえばダイニングテーブルは、ニューヨーク時代に購入したポール・ケアホルムのものだと書く。「テーブルにはいろんな歴史がきずになったり、しみになったりして、残っている。飯を食べたり、たばこを吸っていて焼け焦げを作ったり、この上で絵を描いたり、そんな歴史がこのテープルには残っているのだ」といい、その思い出から東京までわざわざ持ち帰ったという。
「私達の本当に良き友として、あるものはまるで恋人のよう」だと、猪熊は収集物を表現する。旅から戻ると持ち主の愛情が感じられなかったモノたちは瀕死の状態になってしまうとし、それら一つひとつを猪熊が手に触れ、目で撫でることで蘇生するのだと猪熊は書く。人とモノの両者に愛が通っていたというのは、まさにモノを愛した猪熊らしい考えだろう。猪熊にとって椅子もテーブルもその他すべてのものも生きているものであった。「家具は生きている。そして人々の愛情を求めつつ毎日を生きている」。だからこそ彼が愛した家具や雑貨は主を失ったいまも唯一無二の輝きを放ち続ける。
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