ARCHITECTURE
【愛知・名古屋市】鈴木禎次が手がけた名近代建築。華やかな社交場〈揚輝荘〉へ|甲斐みのりの建築半日散歩
November 27, 2020 | Architecture, Culture, Food, Travel | casabrutus.com | photo_Ryumon Kagioka text_Minori Kai cooperation_公益財団法人名古屋観光コンベンションビューロー
「本丸御殿」が復元されたばかりの〈名古屋城〉はもちろんのこと、〈名古屋市役所本庁舎〉や〈愛知県庁舎〉など公共機関にも現役で名建築が使用されている愛知県名古屋市には、さまざまな近代建築が残されている。大正~昭和初期にかけての華やかな時代の歴史や文化を物語る〈揚輝荘〉をはじめ、ロマンチックな名古屋の名建築をめぐった。
●近代名古屋の歴史と文化を物語る〈揚輝荘〉。
名古屋のまちで名所や名建築や老舗を訪ねて歩くと、歴史やルーツが名古屋城築城による「清洲越し」と呼ばれる都市移転に通じることが多くある。地下鉄・覚王山駅から徒歩10分ほど、日泰寺の東側に残る〈揚輝荘〉も、織田信長の家臣・伊藤蘭丸祐道が清洲越し後に創業した〈松坂屋〉の前身、〈いとう呉服店〉の15代目・伊藤次郎左衛門祐民が丘陵地に建設した伊藤家の別邸。1909年(明治42)に渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加した祐民は、帰国後に栄に名古屋初の近代百貨店を開店し、皇族や政財界の要人・文化人と交流を重ねた。
1918年(大正7)年頃から、約1万坪の森を切り開いて祐民が築いた〈揚輝荘〉は、かつて社交場として華やぎ、アジアの留学生が寄宿することで国際的な交流もおこなわれた場所。30棟以上の建造物や池泉回遊式庭園で、会食・舞踏会・園遊会・観月会・茶会など催されていたという。その後、戦争時の空襲や再開発などの荒波をくぐり抜け、現在は名古屋の歴史や文化を伝える施設として、5棟の建造物が市指定有形文化財となり一部公開されている。
1918年(大正7)年頃から、約1万坪の森を切り開いて祐民が築いた〈揚輝荘〉は、かつて社交場として華やぎ、アジアの留学生が寄宿することで国際的な交流もおこなわれた場所。30棟以上の建造物や池泉回遊式庭園で、会食・舞踏会・園遊会・観月会・茶会など催されていたという。その後、戦争時の空襲や再開発などの荒波をくぐり抜け、現在は名古屋の歴史や文化を伝える施設として、5棟の建造物が市指定有形文化財となり一部公開されている。
ローマ様式の噴水塔〈鶴舞公園噴水塔〉や、以前にこの連載でも紹介した大阪〈高島屋東別館〉を手がけた、名古屋の近代建築の巨匠・鈴木禎次の設計で、1929年(昭和4)に尾張徳川家から移築された茶室付きの和室に洋室を増築した和洋折衷の館「伴華楼(ばんがろう)」に続き、2013年(平成25)から公開が始まったのが、1937年(昭和12)に迎賓館として建てられた「聴松閣(ちょうしょうかく)」。ハーフティンバー様式の山小屋風の外観、鮮やかなベンカラ色の漆喰の外壁、石積みの柱の車寄せ、玄関前の虎の石像、外から眺めるだけでも豪快さに満ちあふれているけれど、中に入るとさらに、祐民の思いを詰め込んだ独特の意匠に圧倒される。
当時の竹中工務店を代表する設計家の一人・小林三造が、床・壁・建具など随所に匠の技を散りばめた1階の食堂や大階段、それから英国、中国、和の様式を取り入れた2階の客室は、部屋ごと異なる雰囲気で、世界を旅した祐民の記憶をのぞいているようだ。特筆すべきは、どこか艶やかな気配が漂う地下部分。アンコールトムに見られる女神のレリーフやヒマラヤ連峰雪嶺の彫刻が施されたガラス窓のある舞踏室。美しいモザイクタイルと女神像が取り付けられた瞑想室。アジャンタ石窟寺院の写しと思われる地下トンネルへの入口。ホールの釈迦誕生物語の壁画。インドやイスラムの史跡に迷い込んだような不思議な錯覚に陥り、過ぎし日のきらびやかなときの中に思いを馳せずにいられない。
〈揚輝荘〉
名古屋市千種区法王町2-5-17 TEL 052 759 4450。9時30分〜16時30分。月曜休(祝日の場合は翌日火曜休)、年末年始休。「聴松閣」の観覧料は300円。他無料。
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illustration Yoshifumi Takeda
甲斐みのり
かい みのり 文筆家。旅、散歩、甘いもの、建築など幅広い題材について執筆。その土地ならではの魅力を再発見するのが得意。
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