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ARCHITECTURE

奇跡の建築〈ヒルサイドテラス〉の50年を振り返ります!

| Architecture, Design | casabrutus.com | text_Naoko Aono   editor_Keiko Kusano

建築家、槇文彦が地域の人々と作り上げてきた東京・代官山の〈ヒルサイドテラス〉。今年はその第1期計画が完成してからちょうど50年になります。今も古びることのない魅力の秘密と歴史を振り返る展覧会が始まりました。

〈ヒルサイドテラス〉A・B・C棟をのぞむ(1973 年)。広い道(皮)に建物(あんこ)が直接くっついている、と槇は表現する。これだけ広い道路に接して、低層の建物が建てられている事例は少ない。
〈ヒルサイドテラス〉A・B・C棟をのぞむ(1973 年)。広い道(皮)に建物(あんこ)が直接くっついている、と槇は表現する。これだけ広い道路に接して、低層の建物が建てられている事例は少ない。
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展会場で、設計者の槇文彦と、展示されているジオラマ製作を指導した建築家の川添善行(写真右)。 photo_Shin-ichi Yokoyama
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展会場で、設計者の槇文彦と、展示されているジオラマ製作を指導した建築家の川添善行(写真右)。 photo_Shin-ichi Yokoyama
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展でお披露目されているジオラマは、およそ100名の学生が全国から製作に関わった。 photo_Shin-ichi Yokoyama
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展でお披露目されているジオラマは、およそ100名の学生が全国から製作に関わった。 photo_Shin-ichi Yokoyama
〈ヒルサイドテラス〉A・B・C棟をのぞむ(1973 年)。広い道(皮)に建物(あんこ)が直接くっついている、と槇は表現する。これだけ広い道路に接して、低層の建物が建てられている事例は少ない。
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展会場で、設計者の槇文彦と、展示されているジオラマ製作を指導した建築家の川添善行(写真右)。 photo_Shin-ichi Yokoyama
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展でお披露目されているジオラマは、およそ100名の学生が全国から製作に関わった。 photo_Shin-ichi Yokoyama
代官山の〈ヒルサイドテラス〉内「ヒルサイドフォーラム」、「エキジビションルーム」で開かれている『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』は〈ヒルサイドテラス〉とその土地の所有者である朝倉家の150年にわたる歩みを振り返るもの。〈ヒルサイドテラス〉の第1期計画が完成してから50年、隣接する〈旧朝倉家住宅〉の建設から100年という節目の年を記念したものだ。
〈ヒルサイドテラス〉A棟(1973年頃)。左側に見える粟津潔デザインの木のようなサインのほかは、目立つ看板などは出さないようにしていた。 photo_Kaneaki Monma
〈ヒルサイドテラス〉A棟(1973年頃)。左側に見える粟津潔デザインの木のようなサインのほかは、目立つ看板などは出さないようにしていた。 photo_Kaneaki Monma
〈ヒルサイドテラス〉は代官山の駅を歩いてしばらくすると見えてくる白い建物。たっぷりとした緑を背景にギャラリーやカフェ、ショップが現れる。50年前、1969年に第1期計画が完成してから第6期まで20年以上の年月をかけ、ゆっくりと成長してきた。設計は槇文彦。近代建築の保存に取り組む国際組織「DOCOMOMO」にも認定されている、代官山の街並みを形成してきたと言ってもいい存在だ。
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展より。代官山をいくつかのエリアに分け、そのエリアごとに象徴的な時代をピックアップして組み合わせた、歴史のコラージュのようなジオラマ。 photo_Shin-ichi Yokoyama
『HILLSIDE TERRACE 1969-2019 —アーバンヴィレッジ代官山のすべて—』展より。代官山をいくつかのエリアに分け、そのエリアごとに象徴的な時代をピックアップして組み合わせた、歴史のコラージュのようなジオラマ。 photo_Shin-ichi Yokoyama
この敷地を所有する朝倉家は明治初めから精米業を営んできた家だ。戦後は不動産業を主な事業とし、1960年代には朝倉誠一郎とその息子である徳道、健吾が中心となって運営していた。一方、槇は戦後アメリカに留学、ハーバード大学などで教鞭を執った後、帰国して1965年に槇総合計画事務所を開設していた。彼らは1967年、徳道、健吾と槇が慶應義塾大学の同窓生だったことが縁で出会う。当時、朝倉家では旧山手通り沿いの土地にアパートを建てるため、設計をしてくれる建築家を探していた。
〈ヒルサイドテラス〉C棟。〈ヒルサイドテラス〉各棟には現在〈ミナ ペルホネン代官山〉、〈レストラン・パッション〉、〈クリスマスカンパニー〉などのショップやレストランが入居している。
〈ヒルサイドテラス〉C棟。〈ヒルサイドテラス〉各棟には現在〈ミナ ペルホネン代官山〉、〈レストラン・パッション〉、〈クリスマスカンパニー〉などのショップやレストランが入居している。
1969年、第1期計画で建てられたのはA棟・B棟。その後1973年に第2期(C棟)、77年に第3期(D・E棟)……、と〈ヒルサイドテラス〉は少しずつ成長していく。1992年に第6期計画であるF・G・H棟が完成、1998年にはヒルサイドウエストが完成した。およそ30年かけて今の街並みを作ってきたことになる。

この街並みの形成には規制がプラスに働いた面もある。第1期計画の敷地は第一種住居専用地域かつ第一種高度地区であり、住居以外の建物は建てられず、高さは10メートル以下、というきまりがあった。そこで“一団地計画”として申請し、ショップやレストランをつけることが可能になったのだ。

第6期計画の敷地は10メートルの高さ制限はなかったが、道路に近いほうはあえて10メートルに抑え、他の棟と高さを揃えた。道路から奥まった部分は高くなっているが、道を歩いている人にはほとんど見えない。低層でのびやかな街はこうして生まれた。
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