ART
ジャコメッティと矢内原伊作が作り上げたもの。|鈴木芳雄「本と展覧会」
February 25, 2020 | Art | casabrutus.com | text_Yoshio Suzuki editor_Keiko Kusano
フランス留学中の哲学者、矢内原伊作がインタビューのためジャコメッティを訪ねたこと。それが、そもそもの始まりだった。やがてジャコメッティの求めに応じて矢内原はモデルを務めることになる。1956年から61年、そのために繰り返し渡仏。矢内原はジャコメッティとの交流を記録した著作を多く残した。
〈ブリヂストン美術館〉の創設は1952年。敗戦から7年後のこの年の4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を取り戻した。その3ヶ月前の同年1月8日に開館というから、占領下の日本(Occupied Japan)でこの美術館は生まれたのだ。
それから68年。〈アーティゾン美術館〉と館名を変え、最新鋭の設備と恵まれた敷地を得て、この美術館は今ここにある。古代の美術品、印象派、ポスト印象派、日本の近世美術、日本近代洋画、20世紀美術を擁し、現代美術にまで視野を広げた収集、展示活動を行う。2015年から建て替えのための休館をしていたが、その間も積極的に収集活動は行われ、たとえばパウル・クレーの作品をまとめて24点収蔵するなど目をみはるものがある。
それから68年。〈アーティゾン美術館〉と館名を変え、最新鋭の設備と恵まれた敷地を得て、この美術館は今ここにある。古代の美術品、印象派、ポスト印象派、日本の近世美術、日本近代洋画、20世紀美術を擁し、現代美術にまで視野を広げた収集、展示活動を行う。2015年から建て替えのための休館をしていたが、その間も積極的に収集活動は行われ、たとえばパウル・クレーの作品をまとめて24点収蔵するなど目をみはるものがある。
開館記念展『見えてくる光景 コレクションの現在地』でも新収蔵作品が多く展示されているが、その新収蔵作品の1点、アルベルト・ジャコメッティが日本人の哲学者、矢内原伊作を描いた作品《矢内原》を見ていきたい。
哲学者・矢内原伊作(1918-1989年)はフランスの国立科学研究センターの招聘で1954年秋から1956年の暮、パリに留学した。専門分野の研究の傍ら、当地の学者や文人、芸術家に会って、生きた文化や思想に触れようという志を立てた。
そうして芸術家では、ミロ、シャガール、ブラックらに知遇を得た。なかでもジャコメッティとは深い親交を続け、長くモデルを務めた。その対話録は1958年に美術出版社から『芸術家との対話』として出版されたが、絶版になり、その後、雄渾社が他のエッセイを合わせ同名の本を出したがこれも廃版。1984年に彩古書房からこの『芸術家との対話 付・ジャコメッティと私』という形で出版された。
そうして芸術家では、ミロ、シャガール、ブラックらに知遇を得た。なかでもジャコメッティとは深い親交を続け、長くモデルを務めた。その対話録は1958年に美術出版社から『芸術家との対話』として出版されたが、絶版になり、その後、雄渾社が他のエッセイを合わせ同名の本を出したがこれも廃版。1984年に彩古書房からこの『芸術家との対話 付・ジャコメッティと私』という形で出版された。
矢内原はジャコメッティの画廊に連絡先を預け、やや時間があって、ジャコメッティ本人から連絡をもらうことになる。矢内原は指定された日に(その日は激しい雨だったという。雨の中のジャコメッティというとアンリ・カルティエ=ブレッソンの撮った、コートの襟を頭の上にかぶせたジャコメッティの写真を思い浮かべてしまうが)、フランス文学者の宇佐見英治によるジャコメッティ論が載った『美術手帖』と土門拳撮影の『日本の彫刻』第一巻を携えてサンジェルマン・デ・プレのカフェに会いに行く。矢内原は「戦後すぐれた文学者や芸術家のたまりだった」と記しているので、たぶん、カフェ・ド・フロールかレ・ドゥ・マゴだろう。それが矢内原とジャコメッティの親交の始まりだった。
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illustration Yoshifumi Takeda
鈴木芳雄
すずき よしお 編集者/美術ジャーナリスト。『ブルータス』副編集長時代から「奈良美智、村上隆は世界言語だ!」「若冲を見たか?」など美術特集を多く手がける。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』など。明治学院大学非常勤講師。
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