FASHION
追悼:アライアが愛した家具。|石田潤の In the mode
| Fashion, Design, Travel | casabrutus.com | photo_Christoph Kichere text_Jun Ishida editor_Keiko Kusano
80年代ボディコンブームの代名詞ともなったファッションデザイナーのアズディン・アライア。彼は名作家具のコレクターでもあった。アライアが愛した家具とは?
ファッションデザイナーのアズディン・アライアが亡くなって1か月が過ぎた。「ファッション界における最もインディペンデントなデザイナー」(NYタイムズ紙)、「最後の偉大な職人」(USヴォーグ誌)、「ボディ・コンシャスの王」(タイム誌)……。彼を讃えるさまざまな言葉が世界中のメディアを駆け巡り、ナオミ・キャンベルやレディ・ガガなど彼の服を愛したセレブリティやデザイナーたちも追悼の言葉を贈った。
〈ドーバー ストリート マーケット〉でアライアを展開する川久保玲は「全身全霊を尽くし、服を作った」と賛辞を述べ、ミウッチャ・プラダ(2000年〜2007年にかけてアライアはプラダグループの傘下にあったが、2007年にアライアは全ての株を買い戻した)は「知的な実直さと独創性を尊敬し、また尊重していた」と述べている。
個人的な思い出としては、アライアは最初に好きになったファッションデザイナーだ。成人式に着た服もアライアのスーツだった。体型のちょっとした変化で着られなくなる彼の服は、今主流の「着心地の良い楽な服」とは正反対だが、服はもちろんバッグも靴もそのデザインは彫刻的で、完璧なフォルムの美しさは時代を経ても古くならない。
〈ドーバー ストリート マーケット〉でアライアを展開する川久保玲は「全身全霊を尽くし、服を作った」と賛辞を述べ、ミウッチャ・プラダ(2000年〜2007年にかけてアライアはプラダグループの傘下にあったが、2007年にアライアは全ての株を買い戻した)は「知的な実直さと独創性を尊敬し、また尊重していた」と述べている。
個人的な思い出としては、アライアは最初に好きになったファッションデザイナーだ。成人式に着た服もアライアのスーツだった。体型のちょっとした変化で着られなくなる彼の服は、今主流の「着心地の良い楽な服」とは正反対だが、服はもちろんバッグも靴もそのデザインは彫刻的で、完璧なフォルムの美しさは時代を経ても古くならない。
アズディン・アライアは、1935年にチュニジアの首都チュニスに生まれた(1939年、40年という説もあり)。郊外で小麦農場を営む父の反対を押し切って美術学校に進み彫刻を学んだアライアは、街の仕立屋に職を得るとドレス作りを学ぶ。そこで出会った裕福な家の姉妹の紹介により、クリスチャン・ディオールで働く機会を得た彼は、パリへと移り住む。ディオールでの仕事はわずか5日で終わるが、彼の作るドレスはパリの社交界で評判となり、伯爵夫人の庇護のもと、パリ社交界の人脈と顧客を得る。そして1979年、アライアはメゾン〈アズディン アライア〉を設立する。80年代に入ると女性のボディ・ラインを際立たせる彼の服は一世を風靡し、日本でも”ボディコン“ブームを巻き起こした。
『カーサ ブルータス』の読者にとっては、パリのホテル〈3 Rooms – 5 Rue de Moussy〉のオーナーというのが、最も馴染み深い彼のプロフィールかもしれない。2004年にオープンしたこのホテルは、彼が自宅とアトリエ、ショップを構えるマレ地区にある。1フロア貸しの3室だけのホテルで、部屋に置かれた家具はすべてアライア自身が集めた20世紀の名作家具、しかもオリジナルだ。
アライアのショップの内装も手がけているマーク・ニューソンの《ラウンジチェア》を始め、ジャン・プルーヴェの椅子とテーブル、シャルロット・ペリアンの棚、ピエール・ポランの《ABCDソファ》、アルネ・ヤコブセンの《スワン・チェア》に、クォック・ホイ・チャンの《レモン・ソール・ラウンジチェア》、オズワルド・ボルサーニの《D70》ソファ、ハリー・ベルトイアの《ダイヤモンドチェア》、セルジュ・ムーユの照明《ムーユ・エディション》等々、錚々たるデザイナーの家具が置かれている。
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石田潤
いしだ じゅん 『流行通信』、『ヴォーグ・ジャパン』を経てフリーランスに。ファッションを中心にアート、建築の記事を編集、執筆。編集した書籍に『sacai A to Z』(rizzoli社)、レム・コールハースの娘でアーティストのチャーリー・コールハースによる写真集『メタボリズム・トリップ』(平凡社)など。
