CULTURE
ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名言「人の住居はその人を現わす」【本と名言365】
August 26, 2024 | Culture, Architecture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。日本各地で愛される西洋建築、その多くはウィリアム・メレル・ヴォーリズによるものだ。生涯で1500という数の建築を遺した建築家は住宅の名手としても知られ、その設計思想の根底に名言を遺している。
人の住居はその人を現わす
ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名を知らずとも、その建築を目にしたことのある人は多いだろう。1905年に来日したヴォーリズは近江八幡を拠点に活動した建築家で、生涯を通じて1500という驚異的な数の建築を遺した。
その建築は北海道から九州まで全国に点在し、東京では〈山の上ホテル〉のほか、早稲田大学、明治学院大学、東洋英和女学院などに建物が残る。住宅、教会、学校を多く手がけ、商業施設は少ないものの、大阪〈大丸心斎橋店〉、京都〈東華菜館〉、神戸〈旧居留地38番館〉は街のランドマークとして知られる。映画やドラマにもよく使われ、NHK連続テレビ小説『あさが来た』にはヴォーリズがモデルとなった人物も登場。意外なところではアニメ『けいおん!』に登場する学校のモデル、滋賀〈豊郷小学校(現・豊郷小学校旧校舎群)〉も彼の手によるものだ。
アメリカ・カンザス州に生まれたヴォーリズは大学卒業後、キリスト教の精神に基づいて青少年の生活指導などを行うYMCAに勤務する。そして24歳で、滋賀県近江八幡市に英語教師として来日。その授業は非常に人気だったが教職の傍らで行った伝道活動に反発が大きく、教職を解雇されたことで建築の道を歩むことになる。ヴォーリズは正式な建築教育を受けておらず、完全なる独学で建築を習得した。子どものころから建築に関心があり、解雇直前に〈近江八幡YMCA会館(現・アンドリュース記念館)〉を自らはじめて設計して建設。その実績から建築の仕事が舞い込むようになる。
そんなヴォーリズによる住宅建築計画の連続講義を書き起こした『吾家の設計』は、「私の日本語はちょっと妙な日本語です」という言葉から始まる。そのユーモラスな語り口から、評伝通り愛される人物であったことが伝わるだろう。時代背景からすべてというわけではないが、家の細部に至るまで現代にも通じる普遍的な考えが随所に登場する。その建築はとりわけ内面に作用することが、当時から語られてきた。冒頭、ヴォーリズは総論を語るなかで「人の住居はその人を現わす」という。着物や洋服のように、自ずとその人の好みが現れ、その人の精神のあり方まで見えてくると話す。
ヴォーリズの考えは明快だ。建築は安全のため、心身の健康のため、人間的な成長のためにあるという。この本の初版発行は1902年、つまり関東大震災が起こった大正末期。その時代に客間は飾りであって、真に力をいれるべきは子どもや家族のための空間であると説く。そのための設計指南が実に事細かく記される。壁は好きな色で何度だって塗り直していい、古い家こそ設備を整えれば素晴らしいものになる、など、いまと変わらぬ考えが一世紀以上前に提示されていることにたびたび驚かされる。
巻末の解説には、1937年に刊行された『ヴォーリズ建築事務所作品集』の巻頭に含まれるひとつのセンテンスを訳出した「建物の風格は人間の人格と同じく、その外観よりむしろ内容にあります」という言葉が載る。お雇い外国人と呼ばれたジョサイア・コンドルらとは一線を画し、建築の最先端にあったモダニズムを定着させたアントニン・レーモンドとも違う独特な立ち位置にヴォーリズはいる。人を愛した建築家だからこそ、その建築は多く残り続けているのだ。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズの名を知らずとも、その建築を目にしたことのある人は多いだろう。1905年に来日したヴォーリズは近江八幡を拠点に活動した建築家で、生涯を通じて1500という驚異的な数の建築を遺した。
その建築は北海道から九州まで全国に点在し、東京では〈山の上ホテル〉のほか、早稲田大学、明治学院大学、東洋英和女学院などに建物が残る。住宅、教会、学校を多く手がけ、商業施設は少ないものの、大阪〈大丸心斎橋店〉、京都〈東華菜館〉、神戸〈旧居留地38番館〉は街のランドマークとして知られる。映画やドラマにもよく使われ、NHK連続テレビ小説『あさが来た』にはヴォーリズがモデルとなった人物も登場。意外なところではアニメ『けいおん!』に登場する学校のモデル、滋賀〈豊郷小学校(現・豊郷小学校旧校舎群)〉も彼の手によるものだ。
アメリカ・カンザス州に生まれたヴォーリズは大学卒業後、キリスト教の精神に基づいて青少年の生活指導などを行うYMCAに勤務する。そして24歳で、滋賀県近江八幡市に英語教師として来日。その授業は非常に人気だったが教職の傍らで行った伝道活動に反発が大きく、教職を解雇されたことで建築の道を歩むことになる。ヴォーリズは正式な建築教育を受けておらず、完全なる独学で建築を習得した。子どものころから建築に関心があり、解雇直前に〈近江八幡YMCA会館(現・アンドリュース記念館)〉を自らはじめて設計して建設。その実績から建築の仕事が舞い込むようになる。
そんなヴォーリズによる住宅建築計画の連続講義を書き起こした『吾家の設計』は、「私の日本語はちょっと妙な日本語です」という言葉から始まる。そのユーモラスな語り口から、評伝通り愛される人物であったことが伝わるだろう。時代背景からすべてというわけではないが、家の細部に至るまで現代にも通じる普遍的な考えが随所に登場する。その建築はとりわけ内面に作用することが、当時から語られてきた。冒頭、ヴォーリズは総論を語るなかで「人の住居はその人を現わす」という。着物や洋服のように、自ずとその人の好みが現れ、その人の精神のあり方まで見えてくると話す。
ヴォーリズの考えは明快だ。建築は安全のため、心身の健康のため、人間的な成長のためにあるという。この本の初版発行は1902年、つまり関東大震災が起こった大正末期。その時代に客間は飾りであって、真に力をいれるべきは子どもや家族のための空間であると説く。そのための設計指南が実に事細かく記される。壁は好きな色で何度だって塗り直していい、古い家こそ設備を整えれば素晴らしいものになる、など、いまと変わらぬ考えが一世紀以上前に提示されていることにたびたび驚かされる。
巻末の解説には、1937年に刊行された『ヴォーリズ建築事務所作品集』の巻頭に含まれるひとつのセンテンスを訳出した「建物の風格は人間の人格と同じく、その外観よりむしろ内容にあります」という言葉が載る。お雇い外国人と呼ばれたジョサイア・コンドルらとは一線を画し、建築の最先端にあったモダニズムを定着させたアントニン・レーモンドとも違う独特な立ち位置にヴォーリズはいる。人を愛した建築家だからこそ、その建築は多く残り続けているのだ。
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