CULTURE
大坊勝次の名言「甘みの中の苦みが、背筋を伸ばしてくれる。 これ、コーヒーの…」【本と名言365】
August 1, 2024 | Culture, Food | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoko Fujimori illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。閉店から10年を経てもなお、珈琲ファンの間で語り継がれるネルドリップの名店〈大坊珈琲店〉。焙煎と抽出の探求者である店主・大坊勝次氏が綴る、人生訓のように示唆に富んだ焙煎論とは。
1975年に開店し、ビルの取り壊しのため惜しまれながら2013年に閉店した南青山の〈大坊珈琲店〉。「深煎り・ネルドリップ」という日本ならではのスタイルを確立させた一軒として、今もなお語り継がれる存在だ。
38年もの間、常にパリッとした白シャツ姿でカウンターに立ち、物静かな佇まいで客を出迎えた店主・大坊勝次氏は、味わい深い言葉を紡ぐ名文章家でもある。本著も伸びやかで表現巧みな文章で綴られ、そこかしこに金言が散りばめられている。
いわゆるサードウェーブ以降、スペシャルティーコーヒーの世界では豆のポテンシャルを最大限に引き出すため浅煎りが主流となっていき、深煎りは“苦くて豆の持ち味を消してしまうもの”として敬遠される傾向があったが、大坊氏が追求し続けた深煎りはあくまで“甘みを引き出す”ためなのだ。
氏曰く、焼き進めて深煎りに近付くと、徐々に酸味が減り0になるポイントが訪れる。そこを目安として10段階の[7]とするならば、この [7.0]のあたりで甘みが生じ、さらに「7.10」に近付くと焦げ臭さ(スモーク臭)が出現するためこの手前で“煎り止める”。だが [7.10]へともう一歩踏み込めば、より濃厚な甘みが発生する瞬間がある。
逆に焙煎を浅くすれば酸味がもたらされ、たとえば「グアテマラ」なら [6.90]から[6.95]の間でポイントを探し、酸味による明るさや軽さといった味わいの表情を取り入れていく。こうした甘みや酸味の出し方、残し方を、今どきの焙煎機のようにデータ化された焙煎プロファイルを入力する訳でなく、「手廻しロースター」をひたすら手で廻しながら、±0.1、0.15の単位でポイントを探していくのである。「甘みが苦味を包み込んでいるか、甘みの中に苦味が溶け込んでいるか」を自問自答しながら、尖った苦味はなんとか“なだめるように”工夫しつつ、より濃厚な甘みを求めて苦味の際(きわ)まで攻める。その細密な作業と語り口は探求者そのものだ。
甘みの中の苦みが、背筋を伸ばしてくれる。
これ、コーヒーの功徳じゃないだろうか。
信じられないけれど、苦みの功徳。
苦みを消したいと思いつつ、ほんのすこしだけ苦みが欲しいと思ってしまう。そんな甘みの中のわずかな苦みの気配を“コーヒーの功徳”と語るのだ。
そしてこれもまた、時代を経ても変わらぬ普遍的な言葉だろう。
珈琲店とは、職場でも家庭でもない、
自分の役割を務めることから解放される場所。
つまりサードプレイスであり、昭和的な表現であれば“とまり木”と言ってもいい。人によって求める“とまり木”の形は様々で、浅煎りをマグでガブガブ飲むコーヒーショップかもしれないし、バーやスナックかもしれない。でもネルドリップで一滴一滴を抽出する店主の所作をぼうっと眺め、コーヒーの“功徳”を味わう珈琲店の時間もまた、いつの世にも必要なのだ。
38年もの間、常にパリッとした白シャツ姿でカウンターに立ち、物静かな佇まいで客を出迎えた店主・大坊勝次氏は、味わい深い言葉を紡ぐ名文章家でもある。本著も伸びやかで表現巧みな文章で綴られ、そこかしこに金言が散りばめられている。
いわゆるサードウェーブ以降、スペシャルティーコーヒーの世界では豆のポテンシャルを最大限に引き出すため浅煎りが主流となっていき、深煎りは“苦くて豆の持ち味を消してしまうもの”として敬遠される傾向があったが、大坊氏が追求し続けた深煎りはあくまで“甘みを引き出す”ためなのだ。
氏曰く、焼き進めて深煎りに近付くと、徐々に酸味が減り0になるポイントが訪れる。そこを目安として10段階の[7]とするならば、この [7.0]のあたりで甘みが生じ、さらに「7.10」に近付くと焦げ臭さ(スモーク臭)が出現するためこの手前で“煎り止める”。だが [7.10]へともう一歩踏み込めば、より濃厚な甘みが発生する瞬間がある。
逆に焙煎を浅くすれば酸味がもたらされ、たとえば「グアテマラ」なら [6.90]から[6.95]の間でポイントを探し、酸味による明るさや軽さといった味わいの表情を取り入れていく。こうした甘みや酸味の出し方、残し方を、今どきの焙煎機のようにデータ化された焙煎プロファイルを入力する訳でなく、「手廻しロースター」をひたすら手で廻しながら、±0.1、0.15の単位でポイントを探していくのである。「甘みが苦味を包み込んでいるか、甘みの中に苦味が溶け込んでいるか」を自問自答しながら、尖った苦味はなんとか“なだめるように”工夫しつつ、より濃厚な甘みを求めて苦味の際(きわ)まで攻める。その細密な作業と語り口は探求者そのものだ。
甘みの中の苦みが、背筋を伸ばしてくれる。
これ、コーヒーの功徳じゃないだろうか。
信じられないけれど、苦みの功徳。
苦みを消したいと思いつつ、ほんのすこしだけ苦みが欲しいと思ってしまう。そんな甘みの中のわずかな苦みの気配を“コーヒーの功徳”と語るのだ。
そしてこれもまた、時代を経ても変わらぬ普遍的な言葉だろう。
珈琲店とは、職場でも家庭でもない、
自分の役割を務めることから解放される場所。
つまりサードプレイスであり、昭和的な表現であれば“とまり木”と言ってもいい。人によって求める“とまり木”の形は様々で、浅煎りをマグでガブガブ飲むコーヒーショップかもしれないし、バーやスナックかもしれない。でもネルドリップで一滴一滴を抽出する店主の所作をぼうっと眺め、コーヒーの“功徳”を味わう珈琲店の時間もまた、いつの世にも必要なのだ。
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