CULTURE
レオ・レオーニの名言「…緊急を要する行為となっているのです。」【本と名言365】
May 17, 2024 | Culture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。『スイミー』や『あおくんときいろちゃん』、『フレデリック』等、数々の「絵本を出版したレオ・レオーニが、視覚表現に込めたメッセージとは。
自分たちの作るものを通して、1つのモラルを明確に伝えるということは、とても大切なこととなり、しかも緊急を要する行為となっているのです。
広い海の中、楽しく暮らす小さな赤い魚たちのなか、一匹だけ生き残った真っ黒な魚が前向きに力強く生きていくさまを美しいビジュアルで描いた『スイミー』や、青と黄色のマルが生き生きと描かれる『あおくんときいろちゃん』等、名作絵本をいくつも生み出した作家レオ・レオーニ。
いまでこそ絵本作家として知られているレオーニだが、彼が絵本作家としてデビューしたのは1959年、49歳の時である。オランダ人の母とユダヤ人の父の間に1910年に生を受け、アムステルダムで豊かな幼少期を過ごしたレオーニ。幼い頃から芸術に親しみ、若い頃は第二次未来派の芸術家として抽象芸術に打ち込んだ。結婚後は広告業界へと転身、ミラノでグラフィックデザイナーとしての職を得る。しかし、時代は戦争へ。1939年にアメリカへと渡り、広告業界で活躍するようになる。雑誌『Fortune』やオリヴェッティの広告、MoMA等の仕事で60年頃まで活動し、拠点をイタリアへと移す。
『あおくんときいろちゃん』が誕生したのは、1959年。アートディレクターとして華々しく仕事をしていた時期だ。一家でニューヨークのデパートに出かけた時のこと。買い物が長引いてしまい、レオーニは5歳と3歳の孫たちを連れて先に帰ることにした。自宅へと帰る列車の車内で、じっとしていられなくなった孫たちを前にして困ったレオーニは、偶然鞄の中にあった『LIFE』誌の校正紙を見せた。そして、青と黄色と緑色のページを見つけてお話を思いつき、手でページをきれいに丸くちぎって語り始めた。そのエピソードを友人の編集者が聞いて感動し、出版に至ったのだという。
青と黄色が混ざると緑が現れる。その姿に自分自身を重ねる読者は少なくないと思うが、レオーニ本人の姿にも重なる。名だたる一流企業をクライアントに持つ敏腕アートディレクターである立場と、自由な精神を持ち政治や権力に抗い続けるアーティスト、その相反する2つの顔を持つレオーニの姿だ。彼はニューヨークの広告代理店で働きながらも、左派の政治的活動にかかわっていた。フリーランスになった後には、親しくしていた画家のベン・シャーンらとともにNECLC(National Emergency Civil Liberties Committee国家緊急市民自由委員会)の設立にも積極的に関わった。本人は『あおくんときいろちゃん』と政治への関連性について、明確に言及はしていないが、後に彼の作品をひもといた本書には「公民権運動が盛んな時期につくられたこの絵本は、実は非常に政治的なものだったと言える」と書かれている。
この言葉は、1991年5月29日にクーパー・ユニオン大学の卒業生へのスピーチにて語られたものだ。
「ものを作る」ことは、自分の考えを表現することに等しいのです。
という言葉から以下に続く。
自分たちの作るものを通して、1つのモラルを明確に伝えるということは、とても大切なこととなり、しかも緊急を要する行為となっているのです。地球全体と人間の命が、言葉と戦争を作り出す人々——つまり弁護士と軍人たち——の手中にある今現在ほど、僕らが作るものが社会的、政治的メッセージを持つのだということを自覚することが重要です。
あおくんときいろちゃんは、体の色が違うにもかかわらず仲がよく、交じり合ってみどりになることもできる。他の色も同様だ、たくさんの違う色たちが輪になって遊ぶ姿は、肌の色や性別、国籍、年齢、様々な意味にもとらえられる。レオーニが亡くなるまでに出版した本は37冊。彼が歩んできた人生を知った上で、改めて絵本をめくると、また違った面が見えてくる。
広い海の中、楽しく暮らす小さな赤い魚たちのなか、一匹だけ生き残った真っ黒な魚が前向きに力強く生きていくさまを美しいビジュアルで描いた『スイミー』や、青と黄色のマルが生き生きと描かれる『あおくんときいろちゃん』等、名作絵本をいくつも生み出した作家レオ・レオーニ。
いまでこそ絵本作家として知られているレオーニだが、彼が絵本作家としてデビューしたのは1959年、49歳の時である。オランダ人の母とユダヤ人の父の間に1910年に生を受け、アムステルダムで豊かな幼少期を過ごしたレオーニ。幼い頃から芸術に親しみ、若い頃は第二次未来派の芸術家として抽象芸術に打ち込んだ。結婚後は広告業界へと転身、ミラノでグラフィックデザイナーとしての職を得る。しかし、時代は戦争へ。1939年にアメリカへと渡り、広告業界で活躍するようになる。雑誌『Fortune』やオリヴェッティの広告、MoMA等の仕事で60年頃まで活動し、拠点をイタリアへと移す。
『あおくんときいろちゃん』が誕生したのは、1959年。アートディレクターとして華々しく仕事をしていた時期だ。一家でニューヨークのデパートに出かけた時のこと。買い物が長引いてしまい、レオーニは5歳と3歳の孫たちを連れて先に帰ることにした。自宅へと帰る列車の車内で、じっとしていられなくなった孫たちを前にして困ったレオーニは、偶然鞄の中にあった『LIFE』誌の校正紙を見せた。そして、青と黄色と緑色のページを見つけてお話を思いつき、手でページをきれいに丸くちぎって語り始めた。そのエピソードを友人の編集者が聞いて感動し、出版に至ったのだという。
青と黄色が混ざると緑が現れる。その姿に自分自身を重ねる読者は少なくないと思うが、レオーニ本人の姿にも重なる。名だたる一流企業をクライアントに持つ敏腕アートディレクターである立場と、自由な精神を持ち政治や権力に抗い続けるアーティスト、その相反する2つの顔を持つレオーニの姿だ。彼はニューヨークの広告代理店で働きながらも、左派の政治的活動にかかわっていた。フリーランスになった後には、親しくしていた画家のベン・シャーンらとともにNECLC(National Emergency Civil Liberties Committee国家緊急市民自由委員会)の設立にも積極的に関わった。本人は『あおくんときいろちゃん』と政治への関連性について、明確に言及はしていないが、後に彼の作品をひもといた本書には「公民権運動が盛んな時期につくられたこの絵本は、実は非常に政治的なものだったと言える」と書かれている。
この言葉は、1991年5月29日にクーパー・ユニオン大学の卒業生へのスピーチにて語られたものだ。
「ものを作る」ことは、自分の考えを表現することに等しいのです。
という言葉から以下に続く。
自分たちの作るものを通して、1つのモラルを明確に伝えるということは、とても大切なこととなり、しかも緊急を要する行為となっているのです。地球全体と人間の命が、言葉と戦争を作り出す人々——つまり弁護士と軍人たち——の手中にある今現在ほど、僕らが作るものが社会的、政治的メッセージを持つのだということを自覚することが重要です。
あおくんときいろちゃんは、体の色が違うにもかかわらず仲がよく、交じり合ってみどりになることもできる。他の色も同様だ、たくさんの違う色たちが輪になって遊ぶ姿は、肌の色や性別、国籍、年齢、様々な意味にもとらえられる。レオーニが亡くなるまでに出版した本は37冊。彼が歩んできた人生を知った上で、改めて絵本をめくると、また違った面が見えてくる。
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