CULTURE
【本と名言365】水木しげる|「ぼくにとって、空想の世界だけが、…」
April 1, 2024 | Culture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Kentaro Wada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。『ゲゲゲの鬼太郎』を代表作に、妖怪漫画の第一人者として活躍した水木しげる。激動の人生を生き抜き、数々の名作を残した漫画家の理想の生き方とは。
ぼくにとって、空想の世界だけが、本当の生きる世界なのだ。
描いた妖怪の数は約1000体。『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』など多くの漫画を手がけ、妖怪研究者としても大きな功績を残した水木しげる。戦争、貧困と過酷な経験をしながらも、その生き様は楽天的でしたたかだった。
鳥取県境港市で育ち、「ガキ大将」と呼ばれるほどわんぱくな幼少期を過ごした水木。小学生の頃から絵に親しみ、画家を目指して絵画の勉強に励んでいた。美術大学への入学を志していた水木の人生が大きく変わったのは21歳の時。太平洋戦争の召集令状が届き、当時激戦地だったラバウルへ出征。過酷な環境でマラリアを発症して死の淵をさまよったうえに、爆撃によって左腕を失ってしまう。九死に一生を得た水木は、原住民と生活を共にしながら治療に励み、24歳の時に帰国の途についた。
帰国後は武蔵野美術学校に通いながら、鮮魚店や自転車タクシー業など職を転々とした水木。大家業にも手を伸ばし、神戸市のアパートを格安で購入。通りの名前を取って「水木荘」と名付けたことが、ペンネームの由来となった。アパート経営から手を引いた後は、紙芝居や貸本漫画家として活動。しかし、業界の衰退とともに絶食状態になるほどの貧困生活が続くことになる。作家人生の転機となったのは、45歳の時。「別冊少年マガジン」に掲載した『テレビくん』が評判を呼び、紙芝居時代から続けていた『鬼太郎』シリーズとともに人気漫画家の仲間入りを果たした。
貧困時代から一転、大好きな昼寝ができなくなるほど多忙を極めた人気絶頂期。そんな時に思い出していたのが、ラバウルの原住民との暮らし。お金や時間にとらわれることなく、自由気ままに生きる姿は、水木にとって「楽園」だった。「僕が楽園を求めるのは、妖怪の世界や死後の霊の世界を求めるのと共通していた」と語る水木。鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ小僧……空想の世界を力強く生きる妖怪たちには、水木の楽園への憧れが詰まっている。
描いた妖怪の数は約1000体。『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』など多くの漫画を手がけ、妖怪研究者としても大きな功績を残した水木しげる。戦争、貧困と過酷な経験をしながらも、その生き様は楽天的でしたたかだった。
鳥取県境港市で育ち、「ガキ大将」と呼ばれるほどわんぱくな幼少期を過ごした水木。小学生の頃から絵に親しみ、画家を目指して絵画の勉強に励んでいた。美術大学への入学を志していた水木の人生が大きく変わったのは21歳の時。太平洋戦争の召集令状が届き、当時激戦地だったラバウルへ出征。過酷な環境でマラリアを発症して死の淵をさまよったうえに、爆撃によって左腕を失ってしまう。九死に一生を得た水木は、原住民と生活を共にしながら治療に励み、24歳の時に帰国の途についた。
帰国後は武蔵野美術学校に通いながら、鮮魚店や自転車タクシー業など職を転々とした水木。大家業にも手を伸ばし、神戸市のアパートを格安で購入。通りの名前を取って「水木荘」と名付けたことが、ペンネームの由来となった。アパート経営から手を引いた後は、紙芝居や貸本漫画家として活動。しかし、業界の衰退とともに絶食状態になるほどの貧困生活が続くことになる。作家人生の転機となったのは、45歳の時。「別冊少年マガジン」に掲載した『テレビくん』が評判を呼び、紙芝居時代から続けていた『鬼太郎』シリーズとともに人気漫画家の仲間入りを果たした。
貧困時代から一転、大好きな昼寝ができなくなるほど多忙を極めた人気絶頂期。そんな時に思い出していたのが、ラバウルの原住民との暮らし。お金や時間にとらわれることなく、自由気ままに生きる姿は、水木にとって「楽園」だった。「僕が楽園を求めるのは、妖怪の世界や死後の霊の世界を求めるのと共通していた」と語る水木。鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ小僧……空想の世界を力強く生きる妖怪たちには、水木の楽園への憧れが詰まっている。
Loading...