CULTURE
【本と名言365】ウォルト・ディズニー|「好奇心があれば、いつだって…」
October 1, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。世界でいちばん有名なネズミ“ミッキーマウス”を生み出し、夢の世界を実現したウォルト・ディズニー。いくつもの苦難を乗り越えた彼が語っていたこと。
好奇心があれば、いつだって新たな道に導かれるんだ。
愉快な動きでみんなを笑わせてくれるミッキーマウス、風変わりな声に親しみが湧いてくるドナルドダック、子どもたちが目をキラキラさせてその魔法に酔いしれるシンデレラ……。数々の名作アニメーションで子どもから大人までを魅了し、さらにディズニーランドというリアルな場所で、夢にまで見た物語を体験に変える。そんな魔法のようなエンタテインメントを作り上げた一人の男がいる。ウォルト・ディズニーだ。彼の少年のような好奇心と夢見る力が、ディズニーという大帝国を築き上げたのだ。
1901年のシカゴ、5人兄弟の4男としてウォルトは生まれた。4歳の時に一家はミズーリ州の農場へと移り住み、自然と触れ合い、絵に親しんだ。少年はシカゴの高校で絵を学ぶ。第一次世界大戦を経てウォルトはカンザスシティへと移り、広告会社でイラストレーターの職を得る。ここで黎明期にあったアニメーションの世界に出会った彼は創作に没頭し、1920年には初めてオリジナルのアニメーションを作ることになる。
1923年、ウォルトは半分しか詰まっていない旅行鞄を手に、カンザスシティからハリウッドへと向かう。当時のハリウッドは、企業都市として勃興し始め、多くの映画会社が進出し、映画がひとつの産業として地位を確立しつつあった時期だ。映画のスタジオで働きたい、映画監督の仕事がしたいといくつかのスタジオにかけあってみたが、実力もない田舎者はまったく取り合ってもらえない。兄のロイに相談をし、「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ」を設立する。
その後、カンザスシティ時代からの盟友である名アニメーター、アブ・アイワークスを呼び寄せ、アニメーションの世界に実写の少女アリスが紛れ込んで冒険を重ねる『アリス・コメディ』シリーズを完成し大成功を得る。次に挑んだのは実写なしのフルアニメーション作品『しあわせウサギのオズワルド』シリーズだ。この作品が大ヒットを果たし、会社は大躍進を遂げる。しかしその後28年、次の契約のために意気揚々とニューヨークへ向かったウォルトに大変な苦難が待ち受けていた。人気キャラクター、オズワルドの権利を奪われるとともにカンザスシティから連れてきたアニメーターたちをごっそり引き抜かれてしまったのだ。
失意のどん底にあったウォルトだが、それで簡単に引き下がりはしない。彼は、傷心でハリウッドへと向かう帰路に、次のシリーズのキャラクターを考えていたのだ。それが、後に世界でいちばん有名なネズミとなる“ミッキーマウス”である。1928年に公開されたミッキーマウスが主役の『蒸気船ウィリー』は大ヒットを飛ばす。映画館からは笑い声が鳴り響き、終映後は拍手喝采が鳴り止まなかったという。
ミッキーマウスは短編アニメーションとして何本もヒットを飛ばしていたが、ウォルトはさらなる挑戦を続け、今までにない手法を探究する。そして、長編アニメーションの『白雪姫』(1937年)や『シンデレラ』(1950年)を生み出し、1955年には、アニメーションの世界へと入り込むまったく新しい施設であるディズニーランドを作り上げていく。いくつもの失敗を経験しながらも、常に新しいものへと向かう少年のような好奇心が、常にウォルトを突き動かし、新たな創造へと導いたのだろう。
愉快な動きでみんなを笑わせてくれるミッキーマウス、風変わりな声に親しみが湧いてくるドナルドダック、子どもたちが目をキラキラさせてその魔法に酔いしれるシンデレラ……。数々の名作アニメーションで子どもから大人までを魅了し、さらにディズニーランドというリアルな場所で、夢にまで見た物語を体験に変える。そんな魔法のようなエンタテインメントを作り上げた一人の男がいる。ウォルト・ディズニーだ。彼の少年のような好奇心と夢見る力が、ディズニーという大帝国を築き上げたのだ。
1901年のシカゴ、5人兄弟の4男としてウォルトは生まれた。4歳の時に一家はミズーリ州の農場へと移り住み、自然と触れ合い、絵に親しんだ。少年はシカゴの高校で絵を学ぶ。第一次世界大戦を経てウォルトはカンザスシティへと移り、広告会社でイラストレーターの職を得る。ここで黎明期にあったアニメーションの世界に出会った彼は創作に没頭し、1920年には初めてオリジナルのアニメーションを作ることになる。
1923年、ウォルトは半分しか詰まっていない旅行鞄を手に、カンザスシティからハリウッドへと向かう。当時のハリウッドは、企業都市として勃興し始め、多くの映画会社が進出し、映画がひとつの産業として地位を確立しつつあった時期だ。映画のスタジオで働きたい、映画監督の仕事がしたいといくつかのスタジオにかけあってみたが、実力もない田舎者はまったく取り合ってもらえない。兄のロイに相談をし、「ディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオ」を設立する。
その後、カンザスシティ時代からの盟友である名アニメーター、アブ・アイワークスを呼び寄せ、アニメーションの世界に実写の少女アリスが紛れ込んで冒険を重ねる『アリス・コメディ』シリーズを完成し大成功を得る。次に挑んだのは実写なしのフルアニメーション作品『しあわせウサギのオズワルド』シリーズだ。この作品が大ヒットを果たし、会社は大躍進を遂げる。しかしその後28年、次の契約のために意気揚々とニューヨークへ向かったウォルトに大変な苦難が待ち受けていた。人気キャラクター、オズワルドの権利を奪われるとともにカンザスシティから連れてきたアニメーターたちをごっそり引き抜かれてしまったのだ。
失意のどん底にあったウォルトだが、それで簡単に引き下がりはしない。彼は、傷心でハリウッドへと向かう帰路に、次のシリーズのキャラクターを考えていたのだ。それが、後に世界でいちばん有名なネズミとなる“ミッキーマウス”である。1928年に公開されたミッキーマウスが主役の『蒸気船ウィリー』は大ヒットを飛ばす。映画館からは笑い声が鳴り響き、終映後は拍手喝采が鳴り止まなかったという。
ミッキーマウスは短編アニメーションとして何本もヒットを飛ばしていたが、ウォルトはさらなる挑戦を続け、今までにない手法を探究する。そして、長編アニメーションの『白雪姫』(1937年)や『シンデレラ』(1950年)を生み出し、1955年には、アニメーションの世界へと入り込むまったく新しい施設であるディズニーランドを作り上げていく。いくつもの失敗を経験しながらも、常に新しいものへと向かう少年のような好奇心が、常にウォルトを突き動かし、新たな創造へと導いたのだろう。
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