ART
日本と海外を繋いだ阿部展也のモダンアート。
『カーサ ブルータス』2018年10月号より
September 23, 2018 | Art | a wall newspaper | text_Takahiro Tsuchida
1950年代から海外の一流アーティストと交流した、マルチな天才、阿部展也。刺激的なその人生とは。
彼の晩年の絵画は、鮮やかな原色が幾何学的なフォルムを彩る。キャンバスいっぱいに描かれたモチーフは、はちきれそうなほど力強い。彼は生涯を通して新しい形態を探求し続けた。グラフィックデザインのようにモダンな構図にみなぎる生命感は、その探求心が最後まで衰えなかった証だろう。
阿部が画家として知られたきっかけは、37年発表の詩画集『妖精の距離』。これは詩人の瀧口修造との共作で、当時の美術界の先端的なムーブメントであるシュールレアリスムに則した傑作だった。美術評論家としてもシーンの先導役だった瀧口は、20代前半の阿部の才能にいち早く気づき、その名前を広める役目を果たす。
阿部が画家として知られたきっかけは、37年発表の詩画集『妖精の距離』。これは詩人の瀧口修造との共作で、当時の美術界の先端的なムーブメントであるシュールレアリスムに則した傑作だった。美術評論家としてもシーンの先導役だった瀧口は、20代前半の阿部の才能にいち早く気づき、その名前を広める役目を果たす。
阿部は瀧口から勧められ、間もなく前衛的な写真作品も制作する。その腕前を買われる形で、第二次大戦中は陸軍所属の写真家としてフィリピンに赴いた。現地の映画女優と結婚し、戦時中としては恵まれた生活を送るが、敗戦時には捕虜となり単身帰国。この経験が後の阿部に転機をもたらす。ひとつには、過酷な戦争体験に基づく49年作の絵画『飢え』が彼の代表作となる。またフィリピンで体得した英語力が、彼が国際的に活躍していく一因になった。
帰国後の阿部は、新宿下落合のアトリエを拠点にシュールレアリスムの画家として活動。若い芸術家たちのリーダー的存在だったという。そんな中、57年に現クロアチアのドゥブロヴニクで開催された国際造形芸術連盟総会に出席。そこで得た立場と親交から、ニューヨーク、パリ、ウィーン、さらにインドや東欧など多くの都市や地域を巡るようになった。最新の芸術の動向に触れた彼は、それを自作に反映させるとともに、日本に広める役目を果たした。
帰国後の阿部は、新宿下落合のアトリエを拠点にシュールレアリスムの画家として活動。若い芸術家たちのリーダー的存在だったという。そんな中、57年に現クロアチアのドゥブロヴニクで開催された国際造形芸術連盟総会に出席。そこで得た立場と親交から、ニューヨーク、パリ、ウィーン、さらにインドや東欧など多くの都市や地域を巡るようになった。最新の芸術の動向に触れた彼は、それを自作に反映させるとともに、日本に広める役目を果たした。
62年に拠点をローマに移したのは、彼の活動が日本という枠に収まらなくなったのを示すようだ。ベン・シャーン、ジョン・ケージ、ルーチョ・フォンタナ、アントニ・タピエスはじめ後半生に交流を持った作家は、時代を象徴する面々。阿部は彼らと感性を共有する表現者であり続けた。
広島、新潟を経て埼玉に巡回する『阿部展也―あくなき越境者』展の題名は、国境も作風も領域も越えた彼のアグレッシブな姿勢を表す。堂々たる“外向き志向”は現在から見てもまぶしいばかりだ。
阿部展也―あくなき越境者
広島、新潟から巡回。〈埼玉県立近代美術館〉埼玉県さいたま市浦和区常盤9-30-1 TEL 048 824 0111。9月15日〜11月4日。10時〜17時30分。月曜休(9月17日、24日、10月8日は開館)。入館料1,000円。
阿部展也
あべのぶや 1913年、新潟県生まれ。本名、芳文。30年代から作品を発表し、画家、写真家、文筆家として活躍。その画風を時代ごとに変化させ、日本の芸術界に影響を与えた。62年にローマに移り、71年に死去。