CULTURE
【本と名言365】剣持勇|「デザインは本来アノニマスなものであり、…」
November 8, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。戦後日本にデザインという概念を根付かせたデザイナーの一人、剣持勇。ジャパニーズ・モダンという概念をいち早く持ち込み、そこから大きな論争も生んだ剣持にとってデザインとはどのようなものだったのだろう。
デザインは本来アノニマスなものであり、必要性と必然性がぴったり密着していなくてはならない
戦後日本のデザイン黎明期に、その概念を人々に広く伝えたデザイナーの一人が剣持勇だ。丹下健三の〈香川県庁舎〉や大谷幸夫の〈国立京都国際会館〉をはじめとする名建築のインテリアデザイン。天童木工の〈柏戸イス〉〈座卓〉などの数々の名作をはじめ、秋田木工のスタッキングスツール〈No.202〉、現在はワイエムケー長岡が製造する籐椅子〈ラウンジチェア〉などの家具のデザイン。そして乳酸菌飲料〈ヤクルト〉の容器などのインダストリアルデザイン。その多くは半世紀以上前からいまに至るまで、日本人の生活に寄り添い続けている。
剣持は商工省(現・経済産業省)工芸指導所の技師としてキャリアをスタートしている。ヨーロッパからモダンデザインの思想が日本にも届くなかで、ドイツからやってきたブルーノ・タウトが工芸指導所にやってくる。以降、剣持のデザインに貫かれる合理性はこうした出会いで養われたものと剣持の右腕であった松本哲夫はいう。剣持は戦後まもない1952年、商工省の職員としてアメリカへ視察に出た。そこで完成したばかりのチャールズ&レイ・イームズ夫妻の自邸〈イームズハウス〉を訪れ、ジョージ・ネルソンやイサム・ノグチらと交流を深めた。そうした影響を受け、帰国後の剣持は日本独自のモダンデザインを目指すべく「ジャパニーズ・モダーン」を提唱する。これは当時、スウェーデンのデザインがアメリカで大きな人気を集め「スエディッシュ・モダーン」と呼ばれていたことから、日本も「ジャパニーズ・モダン」をもってアメリカでの市場開拓をしてはどうかという現地の声を剣持が拾ったものだ。しかし吉阪隆正らから、それはただの日本趣味ではないかとの反論から「ジャポニカ論争」が生まれる。
剣持の死後も事務所を運営した松本は、「彼はジャパニーズ・モダンとは日本のグッドデザインなのだと言っている」という。帰国と同年、剣持は渡辺力や柳宗理らとともに日本インダストリアルデザイナー協会を結成。さらに亀倉雄策や渡辺力らと「グッドデザイン」運動を推進した。通産省を経たキャリアからなのか、剣持が生来持ち合わせた気質なのか、剣持は日本におけるデザインという概念の伝達と地位向上に力を注いだ。農村などの古道具を愛したという剣持は、『デザインは本来アノニマスなものであり、必要性と必然性がぴったり密着していなくてはならない』との言葉を遺している。彼が望んだのは日本調のデザインではなく、日本の生活から生まれる道具としてのデザインだったのではないか。いまという時代においてこそ、ジャパニーズ・モダンの概念は素直に人々に届くだろう。
やがて剣持のデザインは国際的にも評価を重ねていくが、その仕事量は膨大で〈京王プラザホテル〉のプロジェクトを終えた直後に自死を選ぶ。そうした背景から他のデザイナーのように多くは語られずにいる。しかし剣持の遺したものは実に多く、私たちのいまはその功績の上にあるといっても過言ではない。
戦後日本のデザイン黎明期に、その概念を人々に広く伝えたデザイナーの一人が剣持勇だ。丹下健三の〈香川県庁舎〉や大谷幸夫の〈国立京都国際会館〉をはじめとする名建築のインテリアデザイン。天童木工の〈柏戸イス〉〈座卓〉などの数々の名作をはじめ、秋田木工のスタッキングスツール〈No.202〉、現在はワイエムケー長岡が製造する籐椅子〈ラウンジチェア〉などの家具のデザイン。そして乳酸菌飲料〈ヤクルト〉の容器などのインダストリアルデザイン。その多くは半世紀以上前からいまに至るまで、日本人の生活に寄り添い続けている。
剣持は商工省(現・経済産業省)工芸指導所の技師としてキャリアをスタートしている。ヨーロッパからモダンデザインの思想が日本にも届くなかで、ドイツからやってきたブルーノ・タウトが工芸指導所にやってくる。以降、剣持のデザインに貫かれる合理性はこうした出会いで養われたものと剣持の右腕であった松本哲夫はいう。剣持は戦後まもない1952年、商工省の職員としてアメリカへ視察に出た。そこで完成したばかりのチャールズ&レイ・イームズ夫妻の自邸〈イームズハウス〉を訪れ、ジョージ・ネルソンやイサム・ノグチらと交流を深めた。そうした影響を受け、帰国後の剣持は日本独自のモダンデザインを目指すべく「ジャパニーズ・モダーン」を提唱する。これは当時、スウェーデンのデザインがアメリカで大きな人気を集め「スエディッシュ・モダーン」と呼ばれていたことから、日本も「ジャパニーズ・モダン」をもってアメリカでの市場開拓をしてはどうかという現地の声を剣持が拾ったものだ。しかし吉阪隆正らから、それはただの日本趣味ではないかとの反論から「ジャポニカ論争」が生まれる。
剣持の死後も事務所を運営した松本は、「彼はジャパニーズ・モダンとは日本のグッドデザインなのだと言っている」という。帰国と同年、剣持は渡辺力や柳宗理らとともに日本インダストリアルデザイナー協会を結成。さらに亀倉雄策や渡辺力らと「グッドデザイン」運動を推進した。通産省を経たキャリアからなのか、剣持が生来持ち合わせた気質なのか、剣持は日本におけるデザインという概念の伝達と地位向上に力を注いだ。農村などの古道具を愛したという剣持は、『デザインは本来アノニマスなものであり、必要性と必然性がぴったり密着していなくてはならない』との言葉を遺している。彼が望んだのは日本調のデザインではなく、日本の生活から生まれる道具としてのデザインだったのではないか。いまという時代においてこそ、ジャパニーズ・モダンの概念は素直に人々に届くだろう。
やがて剣持のデザインは国際的にも評価を重ねていくが、その仕事量は膨大で〈京王プラザホテル〉のプロジェクトを終えた直後に自死を選ぶ。そうした背景から他のデザイナーのように多くは語られずにいる。しかし剣持の遺したものは実に多く、私たちのいまはその功績の上にあるといっても過言ではない。
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