若き日のル・コルビュジエに、永井荷風を想う|鈴木芳雄「本と展覧会」 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

若き日のル・コルビュジエに、永井荷風を想う|鈴木芳雄「本と展覧会」

ル・コルビュジエと永井荷風。一見、なんの共通点もないふたりが同時期にパリという世界一モダンな都市で、交錯していた。20世紀初頭の彼らの軌跡を振り返る。

『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』会場風景。
ル・コルビュジエの設計した美術館でル・コルビュジエの作品を見る展覧会『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』。充実した展覧会であることは間違いないが、多少とまどった人も多かったのではないだろうか。模型や図面が続く、もっと建築展的な色合いが濃いものとイメージしていたが、どちらかというと絵画展としての印象が残る。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《多数のオブジェのある静物》(1923年)。 (c)FLC/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2018 B0365
ル・コルビュジエが設計した住宅の模型やデザインした家具なども展示され、仕事のエッセンスは十分に見ることができるが、この近代建築の父がこれほどまでに絵を描いていた驚きとともに、この展覧会ではそれを多く集めている。さらに、著述の領域でも活躍した当時のメディアを展示し、見渡している。こういった時期を経て、彼は建築の仕事に集中度を高めていく。
ル・コルビュジエとアメデ・オザンファンが手がけた雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』。1920年から1925年までに、合計28号が発行された。
1917年2月、29歳の建築家シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(のちのル・コルビュジエ)はスイス・ジュラ地方の彫金装飾の町、のちに時計産業で知られる小都市ラ・ショー=ド=フォンからパリにやってきた。この花の都に出て来るのは初めてではなかったが、このときは活動の拠点をパリに置くための転居だった。
彼は20代のうちにヨーロッパ諸国を巡る旅を続けた。ウィーン、パリ、ミュンヘン、ベルリンなどの大都市で新しい建築の動向に接し、考察した結果、総合的に見てパリを拠点とすることに決めたという。

ル・コルビュジエとパリに注目してみると、おもしろい事実がわかった。作家で建築・都市計画史家である東 秀紀の著書『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社 1998年)という本。帯文にはこうある。

「1908年3月、パリのカルチェ・ラタンに旅装を解いた二人の若者がいた。後の作家永井荷風と建築家ル・コルビュジエである。
 彼らが見たパリ—それは、20世紀の都市生活、芸術、思想の原点に他ならなかった。
 だが、以後二人は全く正反対の理想都市を追い求める。裏町に魅かれ、遊歩者の視点を説く荷風。他方超高層ビル建ち並ぶ都市への再開発を推し進めようとするコルビュジエ。二人の芸術は、そうした都市観の下で、発展していった。」

(『荷風とル・コルビュジエのパリ』帯文より引用)
東 秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社/1998年)。若き永井荷風とル・コルビュジエの感性に委ね、当時のパリを描く。
小説家であり、一方、モダンな都市生活者としての顔でも今も人気を誇る永井荷風と、モダニズム建築の父、あるいは神(?)であるル・コルビュジエの人生がパリという世界一モダンな都市で、一瞬とはいえ交錯していたとは。

1917年にパリに居を定めたル・コルビュジエが初めてパリに来たのは1908年3月。スイスの山奥の美術学校の学生だった本名シャルル=エドゥアール・ジャンヌレは前年の9月にラ・ショー=ド=フォンを出発し、学友とヨーロッパを旅していた。その途上のウィーンでプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を見て、パリの屋根裏部屋とカフェに魅せられ、当初の予定にはなかったパリに向かったのだ。


一方、永井荷風である。荷風の父・久一郎はアメリカのプリンストン大学やボストン大学に留学もしたエリート官吏だった。文学に入れ込む息子に実業を学ばせようと荷風を渡米させ、日本大使館や横浜正金銀行(東京銀行の前身)に勤めさせるが、結局アメリカには馴染めず、これまた久一郎のコネで横浜正金銀行リヨン支店に勤めることとなった。

「この頃荷風は友人に宛てて『連日銀行に出なければならないので、此れが何よりもつらい。僕は西洋に居たいばかりに、ふなれなソロバンをはじき、俗人と交際をして居る』(明治四〇年十二月一一日付、西村恵次郎宛書簡)と書いている。」
(東 秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』より引用)