CULTURE
ジョージ・ナカシマの名言「…、何か新しい職業を探し出さねばならないと思った。」【本と名言365】
August 15, 2024 | Culture, Design | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。日系アメリカ人としてイサム・ノグチ同様、国際的に評価の高いジョージ・ナカシマ。その仕事は時代を超えて愛され、尊敬の念を集める。木を愛した名匠として語られるナカシマは果たして、どのような道のりを経てそこに至ったか。自伝的記録の一冊から、その信念を読み解いていこう。
私は、私が初めから終わりまですべてを統合できる、何か新しい職業を探し出さねばならないと思った。
自らをデザイナーではなくウッドワーカー(木匠)と語ったジョージ・ナカシマの家具は唯一無二の存在感で人々を魅了しつづける。なぜその家具は特別なのか。答えの一端は自伝『木のこころ 木匠回想記』から読みとることが出来るだろう。本書は「生いたち」「樹木」「もの作り」からなり、ナカシマのスケッチ画も多数掲載する名著だ。
ナカシマは1905年、アメリカ西海岸ワシントン州に日系一世として生まれた。ワシントン大学とマサチューセッツ工科大学で建築を学んだ後、ニューヨークで建築の仕事に携わってから世界一周の旅に出る。船でロンドンに渡り、パリへ。世界恐慌を引き金に芸術家たちが離れ始めたモンパルナスに暮らした。ナカシマはフランスの文化的な生活を楽しみつつも、そこに自身の本質はないと悟る。次いで彼は自身のルーツである東京へ。ここでアントニン・レーモンドの事務所で働くこととなり、吉村順三と交流に深める。二人はともに『方丈記』を読み、京都、奈良、伊勢を旅した。ナカシマは吉村から日本の精神と文化の多くを学んだと書く。そしてレーモンドが受託した仕事のため、次いでインドへ渡る。それはヒンズー教の導師や修道僧の生活共同体が暮らす建物の計画で、アジアにおける最初期の鉄筋コンクリート造の建築を実現したものだ。ここでヒンズーの教えに深く共鳴していくが、理想郷とまで表現するこの地を離れて自身の真理を見つけようとする。
ナカシマは工業化と合理性で進歩していく20世紀を体感しながら、これらと一線を画して家具作りに専念した。彼は旅のなかで多様な文化に触れ、ものづくりの本質を見つめた。インドから帰国後、戦争が間近に迫った東京からアメリカへ向かう。そして彼はレーモンドの師匠筋にあたるフランク・ロイド・ライトの仕事を見て、大きく失望する。形態は興味深いが、構造や構法は不適当だと見た。そしてナカシマは「私は、私が初めから終わりまですべてを統合できる、何か新しい職業を探し出さねばならないと思った。」と書く。そして生涯の仕事に木工作家を選ぶことを決意する。
しかし戦争が勃発し、ナカシマは家族とともに収容所に送られる。その愚行に怒りを露わにするが、大きな出会いもあった。収容所内で伝統的な技術をもつ日本人大工と出会い、技術を習得する。そしてレーモンドの誘いでペンシルバニアへ移り、これが生涯の拠点であるニューホープにつながる。農場での仕事を経て、ナカシマは開拓者のように自らの住まい、それに必要な家具を作り始める。大量生産の時代を迎えたアメリカにおいて、それと逆行する生き方を歩み始めた。ナカシマは「我々の仕事はわずかな数しか生産できず、それを欲しがる人が十分いたから、大規模な市場を必要としない。」と書く。中間マージンを必要としないから、より上質な素材と技術の質を高めることに注力できると続ける。ナカシマは木と自然を愛し、その素晴らしい木の生命を継ぐために家具という造形に向かった。木を愛したことは確かだが、そこに至るまでにナカシマが深い心の旅を続けたこそが大きい。
「ある運動がその目的を達した時、それらが過去のものになってしまうのは悲しい。」とナカシマは書く。モダンなアートも建築も当初は興味深く刺激的だったが不毛な形態に満たされていったといい、それは持続性と普遍性を欠いたからだと語る。手とともに思索を続けた人物だからこそ、ナカシマの家具は唯一無二でタイムレスなのだ。
自らをデザイナーではなくウッドワーカー(木匠)と語ったジョージ・ナカシマの家具は唯一無二の存在感で人々を魅了しつづける。なぜその家具は特別なのか。答えの一端は自伝『木のこころ 木匠回想記』から読みとることが出来るだろう。本書は「生いたち」「樹木」「もの作り」からなり、ナカシマのスケッチ画も多数掲載する名著だ。
ナカシマは1905年、アメリカ西海岸ワシントン州に日系一世として生まれた。ワシントン大学とマサチューセッツ工科大学で建築を学んだ後、ニューヨークで建築の仕事に携わってから世界一周の旅に出る。船でロンドンに渡り、パリへ。世界恐慌を引き金に芸術家たちが離れ始めたモンパルナスに暮らした。ナカシマはフランスの文化的な生活を楽しみつつも、そこに自身の本質はないと悟る。次いで彼は自身のルーツである東京へ。ここでアントニン・レーモンドの事務所で働くこととなり、吉村順三と交流に深める。二人はともに『方丈記』を読み、京都、奈良、伊勢を旅した。ナカシマは吉村から日本の精神と文化の多くを学んだと書く。そしてレーモンドが受託した仕事のため、次いでインドへ渡る。それはヒンズー教の導師や修道僧の生活共同体が暮らす建物の計画で、アジアにおける最初期の鉄筋コンクリート造の建築を実現したものだ。ここでヒンズーの教えに深く共鳴していくが、理想郷とまで表現するこの地を離れて自身の真理を見つけようとする。
ナカシマは工業化と合理性で進歩していく20世紀を体感しながら、これらと一線を画して家具作りに専念した。彼は旅のなかで多様な文化に触れ、ものづくりの本質を見つめた。インドから帰国後、戦争が間近に迫った東京からアメリカへ向かう。そして彼はレーモンドの師匠筋にあたるフランク・ロイド・ライトの仕事を見て、大きく失望する。形態は興味深いが、構造や構法は不適当だと見た。そしてナカシマは「私は、私が初めから終わりまですべてを統合できる、何か新しい職業を探し出さねばならないと思った。」と書く。そして生涯の仕事に木工作家を選ぶことを決意する。
しかし戦争が勃発し、ナカシマは家族とともに収容所に送られる。その愚行に怒りを露わにするが、大きな出会いもあった。収容所内で伝統的な技術をもつ日本人大工と出会い、技術を習得する。そしてレーモンドの誘いでペンシルバニアへ移り、これが生涯の拠点であるニューホープにつながる。農場での仕事を経て、ナカシマは開拓者のように自らの住まい、それに必要な家具を作り始める。大量生産の時代を迎えたアメリカにおいて、それと逆行する生き方を歩み始めた。ナカシマは「我々の仕事はわずかな数しか生産できず、それを欲しがる人が十分いたから、大規模な市場を必要としない。」と書く。中間マージンを必要としないから、より上質な素材と技術の質を高めることに注力できると続ける。ナカシマは木と自然を愛し、その素晴らしい木の生命を継ぐために家具という造形に向かった。木を愛したことは確かだが、そこに至るまでにナカシマが深い心の旅を続けたこそが大きい。
「ある運動がその目的を達した時、それらが過去のものになってしまうのは悲しい。」とナカシマは書く。モダンなアートも建築も当初は興味深く刺激的だったが不毛な形態に満たされていったといい、それは持続性と普遍性を欠いたからだと語る。手とともに思索を続けた人物だからこそ、ナカシマの家具は唯一無二でタイムレスなのだ。
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