CULTURE
林昌二の名言「施主とは、建築をつくるうえで私たちの目の前にいるたいへん大事な方、あるいは…」【本と名言365】
August 9, 2024 | Culture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。住宅から超高層まで、多岐にわたる建築を設計した建築家・林昌二。半世紀にわたる活動は建築のみならず、人も育てた。第二次世界大戦後から高度経済成長を向かえる時期に始まり、21世紀初頭まで。実にさまざまなクライアントと向き合った林は、彼らをどう見ていたのだろうか。
施主とは、建築をつくるうえで私たちの目の前にいるたいへん大事な方、あるいは敵ですから、これを抜きにしては仕事を語ることはできません。
建築家、林昌二は東京に多くのランドマークを設計した人物だ。近年続けて閉業、解体されたが、銀座〈三愛ドリームセンター〉、中野〈中野サンプラザ〉は多くの人が知る建築だろう。一方で、竹橋〈パレスサイドビルディング〉、新宿〈新宿NSビル〉、五反田〈ポーラ五反田ビル〉、田町〈日本電気(NEC)本社ビル〉、後楽園〈文京シビックセンター〉はいまも現役で活躍する。
先に挙げた建築からわかるように、林は日本のオフィスビルを発展させた建築家でもある。大規模な組織事務所に所属しながら作家性を貫き、部材、構法などを総合的に計画した設計手腕は他に類を見ない。年少期から飛行機の設計者を目指した林だが、敗戦後の日本では航空機の製作や研究は禁じられていた。夢を諦めて建築の道に進んだが、少年の頃に飛行機の設計に明け暮れた経験が後の建築につながったのだという。
そんな林が建築家を引退する年に先んじて出版したのが『建築家 林昌二 毒本』だ。ここで林は過去に記したエッセイや論文をまとめ、自作についても多くを語る。毒本という強烈なタイトルに対し、帯には「書いてきたものは「毒」でした。時が過ぎるにつれて、しだいに体内にたまってくる毒でした。薬は毒の希釈物だとすると、毒は薬の原料にもなろうと勝手に解釈しています」と記した。
この言葉通り、林の遺した言葉は苦くも多くの示唆に富む。〈パレスサイドビルディング〉での評価からオフィスビルを多く依頼されるようになるが、林は「施主とは、建築をつくるうえで私たちの目の前にいるたいへん大事な方、あるいは敵ですから、これを抜きにしては仕事を語ることはできません。」と書く。敵というのは林らしいユーモアのある表現だが、施主である以上、上下関係は免れないともいう。敵と書きつつ、施主は「うるさいほどいい」とも書く。〈パレスサイドビルティング〉は、面積、予算、期日に細かな要求があって生まれたものだと林は考えていたようだ。ポーラ、三愛、東洋経済新報社、三井物産、IBM、伊藤忠商事など、名だたる施主とのやりとりや背景を記した文章はいずれも興味深い。施主に思いがあるからこそ、それに建築で応えていった。林はあくまで冷静であり、客観的に建築を見続けた。建築の潮流と一線を画したからこそ、その建築の多くが現役で居続けるのかもしれない。
林は後年、箱根〈ポーラ美術館〉の設計を若きスタッフ(日建設計に在籍していた安田幸一)に譲っている。精緻で美しい建築は細部に林の建築へのオマージュが表現されたものだ。また建築家の妻、林雅子とともに設計した自邸〈私たちの家〉も建築史に名を刻む。戦後間もない日本で建築を始め、21世紀初頭まで駆け抜けた建築家は施主を敵とうそぶきながら、その独特なコミュニケーションで傑作を世に送り出し続けた。敵との向き合い方を知るには、ぜひ林が遺した毒、あるいは口に苦い良薬を取り込んでほしい。
建築家、林昌二は東京に多くのランドマークを設計した人物だ。近年続けて閉業、解体されたが、銀座〈三愛ドリームセンター〉、中野〈中野サンプラザ〉は多くの人が知る建築だろう。一方で、竹橋〈パレスサイドビルディング〉、新宿〈新宿NSビル〉、五反田〈ポーラ五反田ビル〉、田町〈日本電気(NEC)本社ビル〉、後楽園〈文京シビックセンター〉はいまも現役で活躍する。
先に挙げた建築からわかるように、林は日本のオフィスビルを発展させた建築家でもある。大規模な組織事務所に所属しながら作家性を貫き、部材、構法などを総合的に計画した設計手腕は他に類を見ない。年少期から飛行機の設計者を目指した林だが、敗戦後の日本では航空機の製作や研究は禁じられていた。夢を諦めて建築の道に進んだが、少年の頃に飛行機の設計に明け暮れた経験が後の建築につながったのだという。
そんな林が建築家を引退する年に先んじて出版したのが『建築家 林昌二 毒本』だ。ここで林は過去に記したエッセイや論文をまとめ、自作についても多くを語る。毒本という強烈なタイトルに対し、帯には「書いてきたものは「毒」でした。時が過ぎるにつれて、しだいに体内にたまってくる毒でした。薬は毒の希釈物だとすると、毒は薬の原料にもなろうと勝手に解釈しています」と記した。
この言葉通り、林の遺した言葉は苦くも多くの示唆に富む。〈パレスサイドビルディング〉での評価からオフィスビルを多く依頼されるようになるが、林は「施主とは、建築をつくるうえで私たちの目の前にいるたいへん大事な方、あるいは敵ですから、これを抜きにしては仕事を語ることはできません。」と書く。敵というのは林らしいユーモアのある表現だが、施主である以上、上下関係は免れないともいう。敵と書きつつ、施主は「うるさいほどいい」とも書く。〈パレスサイドビルティング〉は、面積、予算、期日に細かな要求があって生まれたものだと林は考えていたようだ。ポーラ、三愛、東洋経済新報社、三井物産、IBM、伊藤忠商事など、名だたる施主とのやりとりや背景を記した文章はいずれも興味深い。施主に思いがあるからこそ、それに建築で応えていった。林はあくまで冷静であり、客観的に建築を見続けた。建築の潮流と一線を画したからこそ、その建築の多くが現役で居続けるのかもしれない。
林は後年、箱根〈ポーラ美術館〉の設計を若きスタッフ(日建設計に在籍していた安田幸一)に譲っている。精緻で美しい建築は細部に林の建築へのオマージュが表現されたものだ。また建築家の妻、林雅子とともに設計した自邸〈私たちの家〉も建築史に名を刻む。戦後間もない日本で建築を始め、21世紀初頭まで駆け抜けた建築家は施主を敵とうそぶきながら、その独特なコミュニケーションで傑作を世に送り出し続けた。敵との向き合い方を知るには、ぜひ林が遺した毒、あるいは口に苦い良薬を取り込んでほしい。
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