CULTURE
シュランバージェの名言「アイデアは…」【本と名言365】
May 24, 2024 | Culture, Design | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。ティファニーのデザインに大きな功績を残したジャン・ミッシェル・シュランバージェとはどのような人物だったのか。自然に影響を受けた彼の遺した言葉とともに、その独創的な創造の姿勢を追いかけていこう。
アイデアは筆先で思い浮ぶ。
ジャン・ミッシェル・シュランバージェは20世紀を代表するジュエリーデザイナーの一人だ。1907年、当時ドイツ領だったフランス・ミュルーズで伝統的な繊維製造業を営む裕福な家庭の次男に生まれた。両親から跡継ぎとなることを期待されたものの、彼の真の才能は別のところにあった。シュランバージェは少年時代から動物や花を何時間も見続け、そこにある、自然、色、形をスケッチし続けたという。これが彼のイマジネーションに大きなインスピレーションを与えることとなった。
ただし両親は彼がアーティストになることを望まなかった。シュランバージェはビジネスと金融を学び、アメリカ・ニュージャージー州の繊維工場、ドイツ・ベルリンの銀行で働くが、どちらも彼の性分に向かずパリへ住まいを移す。そこで美術系の出版社などに勤めながら、友人たちのジュエリーを作り始める。それに目を付けたのがファッションデザイナーのエルザ・スキャパレリだ。彼女は自身のコレクションに使用するユニークなボタンの制作をシュランバージェに依頼し、友人でもあった伝説的なファッションエディターのダイアナ・ヴリーランドが『ハーパーズ バザー』で紹介する。
やがてシュランバージェは1940年にニューヨークへ居を移し、ここで幼なじみのニコラス・ボンガードと再会を果たす。ファッションデザイナーのポール・ポワレと彫金師でありジュエラーとして知られるルネ・ボワヴァンの孫であるボンガードは、自身もジュエリーの分野で長い経験を持っており、シュランバージェの新しいビジネスパートナーとなる。彼らは小さなジュエリーショップをオープンするものの、すぐに徴兵されてしまう。戦後、彼らは再びニューヨークで工房を開いた。
1950年代、ティファニーはウォルター・ホーヴィングを新たな社長に迎えた。彼はデザインディレクターの提案からボンガードとシュランバージェをティファニーに招く。ここで自由な創造性を発揮することとなるシュランバージェは、「アイデアは筆先で思い浮ぶ」と語っている。彼は最初に鉛筆でスケッチを描き、インクでデザインを描いたのちに色彩を加えた。それがボンガードの手で蝋や粘土製の模型に変わり、ふたりで最適な宝石とセッティングを選び、熟練職人が製作を行う。後年に「現代のジュエリーは地味になった」と述べたシュランバージェは、「美しさやエレガンスよりも、経済的価値を示すようにデザインされている。まるでこう言っているようです。『私を見てください。私はお金持ちです。私は愛されています。私は重要です。』」と続けている。シュランバージェにとってジュエリーは美を創造するものであり、その感性は幼少時から育まれたものだった。
1970年代後半に引退するまでティファニーにアトリエを構えたシュランバージェのデザインは、一貫して自然のフォルムを解釈しつづけ、海の生物、動物などにインスピレーションを得た。ヴリーランドはシュランバージェを「宝石の奇跡を高く評価している。彼にとっては、ジュエリーは夢を実現するための手段であり方法なのです」と表現している。若い頃に体験したシュルレアリスムに大きな影響を受けたシュランバージェのデザインは異端といっていい。しかしそれはまた自由であることを意味する。彼の類い希なる自由なクリエイションは後進に大きな影響を与え、いまなお美しく輝きつづけている。
ジャン・ミッシェル・シュランバージェは20世紀を代表するジュエリーデザイナーの一人だ。1907年、当時ドイツ領だったフランス・ミュルーズで伝統的な繊維製造業を営む裕福な家庭の次男に生まれた。両親から跡継ぎとなることを期待されたものの、彼の真の才能は別のところにあった。シュランバージェは少年時代から動物や花を何時間も見続け、そこにある、自然、色、形をスケッチし続けたという。これが彼のイマジネーションに大きなインスピレーションを与えることとなった。
ただし両親は彼がアーティストになることを望まなかった。シュランバージェはビジネスと金融を学び、アメリカ・ニュージャージー州の繊維工場、ドイツ・ベルリンの銀行で働くが、どちらも彼の性分に向かずパリへ住まいを移す。そこで美術系の出版社などに勤めながら、友人たちのジュエリーを作り始める。それに目を付けたのがファッションデザイナーのエルザ・スキャパレリだ。彼女は自身のコレクションに使用するユニークなボタンの制作をシュランバージェに依頼し、友人でもあった伝説的なファッションエディターのダイアナ・ヴリーランドが『ハーパーズ バザー』で紹介する。
やがてシュランバージェは1940年にニューヨークへ居を移し、ここで幼なじみのニコラス・ボンガードと再会を果たす。ファッションデザイナーのポール・ポワレと彫金師でありジュエラーとして知られるルネ・ボワヴァンの孫であるボンガードは、自身もジュエリーの分野で長い経験を持っており、シュランバージェの新しいビジネスパートナーとなる。彼らは小さなジュエリーショップをオープンするものの、すぐに徴兵されてしまう。戦後、彼らは再びニューヨークで工房を開いた。
1950年代、ティファニーはウォルター・ホーヴィングを新たな社長に迎えた。彼はデザインディレクターの提案からボンガードとシュランバージェをティファニーに招く。ここで自由な創造性を発揮することとなるシュランバージェは、「アイデアは筆先で思い浮ぶ」と語っている。彼は最初に鉛筆でスケッチを描き、インクでデザインを描いたのちに色彩を加えた。それがボンガードの手で蝋や粘土製の模型に変わり、ふたりで最適な宝石とセッティングを選び、熟練職人が製作を行う。後年に「現代のジュエリーは地味になった」と述べたシュランバージェは、「美しさやエレガンスよりも、経済的価値を示すようにデザインされている。まるでこう言っているようです。『私を見てください。私はお金持ちです。私は愛されています。私は重要です。』」と続けている。シュランバージェにとってジュエリーは美を創造するものであり、その感性は幼少時から育まれたものだった。
1970年代後半に引退するまでティファニーにアトリエを構えたシュランバージェのデザインは、一貫して自然のフォルムを解釈しつづけ、海の生物、動物などにインスピレーションを得た。ヴリーランドはシュランバージェを「宝石の奇跡を高く評価している。彼にとっては、ジュエリーは夢を実現するための手段であり方法なのです」と表現している。若い頃に体験したシュルレアリスムに大きな影響を受けたシュランバージェのデザインは異端といっていい。しかしそれはまた自由であることを意味する。彼の類い希なる自由なクリエイションは後進に大きな影響を与え、いまなお美しく輝きつづけている。
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