CULTURE
南伸坊の名言「芸術の最尖端は…でできている」【本と名言365】
May 7, 2024 | Culture, Design | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。ゆるっとした線が特徴のイラストレーターであり、画家であり、装丁デザイナーであり、エッセイストでもある南伸坊。政治家からスポーツ選手、国籍や性別問わず有名人になりきる「本人伝説」でご存知の方も多いかもしれない。「おもしろさ」を追求した彼が人生を振り返り語ったこと。
芸術の最尖端は冗談でできている
「南伸坊」という名前を聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか。漫画が好きな方は雑誌「ガロ」の元編集長、イラストレーションが好きな方は数々の絵や挿画を描いた方、文章が好きな方は数々のエッセイや対談で知られる文筆家、自らの顔をキャンバスに見立て、政治家からスポーツ選手とあらゆる有名人になりきる「本人伝説」の方を知っている方もいるかもしれない。
幅広い媒体で活躍はしたが、共通しているのは「おもしろさ」だ。
面白いものは、イイ。
楽しいものは、イイ。
面白いし、楽しいから。
と『私のイラストレーション史』でも綴っているが、この終始一貫した姿勢は、彼の人生における様々な出会いの中で培われてきた。
叔父が看板屋をやっており、幼い頃から芸術家やデザイナーの仕事を見る機会があり、小学校6年生の時にはもう「デザイナーになりたい」という気持ちが芽生えていたという南少年。決して絵がうまくはなかったと本人は言うが、水木しげるの漫画や和田誠の広告と衝撃的な出合いをし、絵を描く仕事に就きたいという気持ちは募った。
ならば東京藝大へ! と計画を立てるが、高校入試で失敗。工芸高校に滑り込むようにして入学したが、藝大の試験では三度も失敗を重ねた。その結果進んだのが、試験のない美学校であった。美学校とは、「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」現代思潮社という出版社が始めた美術学校で、ポスターには「(花文字)赤瀬川原平、(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之」とあり、「講師陣は、澁澤龍彦、瀧口修造、種村季弘、埴谷雄高、土方巽、唐十郎」とあった。今でこそ著名な人たちであるが、カルチャースクールやコミュニティカレッジなどなかった当時はどう思われていたのだろうか。
1969年、南は生徒になることを即決したが、選んだ教場は木村恒久の図案であった。工芸高校時代は授業がつまらなくて、現在の最先端のデザインを知らない先生を半ばバカにしていた南だったが、美学校の授業は違った。先生が何を言っているのか全然わからなかったが、すべての授業が面白かった。「先生自身が、その時点で考えていること、思いついたこと、を自分がおもしろがって話されていたからだと思う」と述べている。
そんな楽しい講義を受ける日々を送っていた南が「生涯最高の名講義」だったと述べる授業が、赤瀬川原平の講義だ。宮武骸骨の『滑稽新聞』を見ながら、その奇妙な内容を淡々と読み上げていく。しかし、聞いている方は静かに興奮していた。
「ただひたすら、自分の肩越しに、ヘンなものを生徒に見せている。生徒は赤瀬川さんの原寸大の好奇心を原寸のまま手渡される。これがつまり名講義である」。
この言葉は、南が赤瀬川の授業を聞き、自身の体験を思い出しながら述べたものだ。当時世間を騒がせていた、前衛芸術やハプニング、ジョン・ケージのピアノを弾かないコンサートなどを目の当たりにし、「前衛ってイタズラの王様じゃないか!」と思っていたという。
そう思うと、赤瀬川の60年代の前衛芸術家としての様々な活動も面白がれる。もとい、赤瀬川本人も大真面目に面白がっていたに違いない。その後の南の活動の根底にある「面白さ、楽しさ」の根源は、もともと本人が持っていたユーモア精神もあるだろうが、折りに触れて出会ってきた人々によって強固になったのだろう。
「南伸坊」という名前を聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか。漫画が好きな方は雑誌「ガロ」の元編集長、イラストレーションが好きな方は数々の絵や挿画を描いた方、文章が好きな方は数々のエッセイや対談で知られる文筆家、自らの顔をキャンバスに見立て、政治家からスポーツ選手とあらゆる有名人になりきる「本人伝説」の方を知っている方もいるかもしれない。
幅広い媒体で活躍はしたが、共通しているのは「おもしろさ」だ。
面白いものは、イイ。
楽しいものは、イイ。
面白いし、楽しいから。
と『私のイラストレーション史』でも綴っているが、この終始一貫した姿勢は、彼の人生における様々な出会いの中で培われてきた。
叔父が看板屋をやっており、幼い頃から芸術家やデザイナーの仕事を見る機会があり、小学校6年生の時にはもう「デザイナーになりたい」という気持ちが芽生えていたという南少年。決して絵がうまくはなかったと本人は言うが、水木しげるの漫画や和田誠の広告と衝撃的な出合いをし、絵を描く仕事に就きたいという気持ちは募った。
ならば東京藝大へ! と計画を立てるが、高校入試で失敗。工芸高校に滑り込むようにして入学したが、藝大の試験では三度も失敗を重ねた。その結果進んだのが、試験のない美学校であった。美学校とは、「良俗や進歩派に逆行する『悪い本』を出す」現代思潮社という出版社が始めた美術学校で、ポスターには「(花文字)赤瀬川原平、(漫画)井上洋介、(硬筆画)山川惣治、(図案)木村恒久、(油彩)中村宏、(素描)中西夏之」とあり、「講師陣は、澁澤龍彦、瀧口修造、種村季弘、埴谷雄高、土方巽、唐十郎」とあった。今でこそ著名な人たちであるが、カルチャースクールやコミュニティカレッジなどなかった当時はどう思われていたのだろうか。
1969年、南は生徒になることを即決したが、選んだ教場は木村恒久の図案であった。工芸高校時代は授業がつまらなくて、現在の最先端のデザインを知らない先生を半ばバカにしていた南だったが、美学校の授業は違った。先生が何を言っているのか全然わからなかったが、すべての授業が面白かった。「先生自身が、その時点で考えていること、思いついたこと、を自分がおもしろがって話されていたからだと思う」と述べている。
そんな楽しい講義を受ける日々を送っていた南が「生涯最高の名講義」だったと述べる授業が、赤瀬川原平の講義だ。宮武骸骨の『滑稽新聞』を見ながら、その奇妙な内容を淡々と読み上げていく。しかし、聞いている方は静かに興奮していた。
「ただひたすら、自分の肩越しに、ヘンなものを生徒に見せている。生徒は赤瀬川さんの原寸大の好奇心を原寸のまま手渡される。これがつまり名講義である」。
この言葉は、南が赤瀬川の授業を聞き、自身の体験を思い出しながら述べたものだ。当時世間を騒がせていた、前衛芸術やハプニング、ジョン・ケージのピアノを弾かないコンサートなどを目の当たりにし、「前衛ってイタズラの王様じゃないか!」と思っていたという。
そう思うと、赤瀬川の60年代の前衛芸術家としての様々な活動も面白がれる。もとい、赤瀬川本人も大真面目に面白がっていたに違いない。その後の南の活動の根底にある「面白さ、楽しさ」の根源は、もともと本人が持っていたユーモア精神もあるだろうが、折りに触れて出会ってきた人々によって強固になったのだろう。
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