CULTURE
アストリッド・リンドグレーンの名言「物事を解決するには…」【本と名言365】
May 2, 2024 | Culture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。『長くつ下のピッピ』や『やかまし村の子どもたち』等の名作児童文学を生み出したアストリッド・リンドグレーンが、世界中のすべての親に向けて語った切実なこととは。
物事を解決するには暴力以外の別の方法がある。
長いくつ下を履いており、赤毛で大きな靴を履き、「世界一強い」怪力を携えた9歳の女の子ピッピが、馬とサルのニルソン氏とともに家の隣に引っ越してきた日から、トミーとアニカの毎日は楽しいものに! 『長くつ下のピッピ』を読んで、こんな自由で楽しい子が隣の家に住んでいたら……、と思った人は少なくないだろう。
『長くつ下のピッピ』は、1945年にスウェーデンで出版されて以来、40以上の言語に翻訳され、世界中で愛されている作品である。日本でも多くの出版社から翻訳本が発売されたり、テレビシリーズになって放映されたりもしている。高畑勲、宮﨑駿、小田部羊一により、この物語のアニメ化企画があったが実現には至らなかったことも有名な話だ。(詳しくは『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店に記載)
面白いことを見つけるのが大得意で、うそ話ばかりするけれど愛情に溢れた女の子ピッピの世界を生み出したのは、アストリッド・リンドグレーン。この物語が生まれたのは、世界で大きな戦争が起きていた1941年の冬だ。リンドグレーンはまだ作家ではなく、スウェーデンのストックホルムに住んでいたパートタイムで働く主婦だった。しかし、彼女は若い頃から新聞社で働いたり、大学教授の秘書の仕事などをしており、文章を書くことを得意としていた。第二次大戦が始まった頃には「戦争日記」を記そうと決意し、持ち前のユーモアと観察力で毎日書き続けていた。
そんなある日、病気で寝込んでいた愛娘に「長くつ下のピッピ」が出てくるお話をして欲しいとせがまれて、即興で語り始めた物語が原形となった。その後、1945年に出版され、世界へと広がっていった。「奇妙な名前だから、同じように奇妙な女の子でなければならなかった」と後に語っている。
この言葉は、1978年にドイツ書店協会平和賞授賞式で語られた言葉だ。暴力と権威主義、とくに子どもたちが最も被害を受ける家庭内暴力の問題について、強く訴えようとしたこのスピーチは、挑発的だとみなされ、事前に内容を変更するよう要請があったという。しかし、リンドグレーンはそれを固辞し、スピーチに挑んだ。
権力を持つ人たちが「あらゆる状況において最も効果的な解決策として暴力を過信することによって」、国の重大な決定がなされたり、時に戦争が行われたりすることがある。もちろん逆も然りだ。その時に重要なのは、「世界の運命を決めるのは個々の人間」であり、その人間の形成には、子ども時代に、どれだけ親から愛情を注がれたか、愛情がどんなものかを教えてもらったかが重要だと述べる。愛情を注ぐことは決して好き勝手にやらせて規範がないわけではなく、親が手本となるべきだという。そして、「物事を解決するには暴力以外の別の方法があることを、わたくしたちはまずは自分の家庭で、お手本として示さなくてはならないのです」と強く断言した。
豊かな自然に囲まれて、自由闊達な日々を送る子どもたちの姿を、子どもの視点に立って描き続けたリンドグレーン。子どもの権利の擁護者としても知られる彼女の作品や発言は、スウェーデン国内だけではなく、世界中に大きな影響を与え続けている。
長いくつ下を履いており、赤毛で大きな靴を履き、「世界一強い」怪力を携えた9歳の女の子ピッピが、馬とサルのニルソン氏とともに家の隣に引っ越してきた日から、トミーとアニカの毎日は楽しいものに! 『長くつ下のピッピ』を読んで、こんな自由で楽しい子が隣の家に住んでいたら……、と思った人は少なくないだろう。
『長くつ下のピッピ』は、1945年にスウェーデンで出版されて以来、40以上の言語に翻訳され、世界中で愛されている作品である。日本でも多くの出版社から翻訳本が発売されたり、テレビシリーズになって放映されたりもしている。高畑勲、宮﨑駿、小田部羊一により、この物語のアニメ化企画があったが実現には至らなかったことも有名な話だ。(詳しくは『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店に記載)
面白いことを見つけるのが大得意で、うそ話ばかりするけれど愛情に溢れた女の子ピッピの世界を生み出したのは、アストリッド・リンドグレーン。この物語が生まれたのは、世界で大きな戦争が起きていた1941年の冬だ。リンドグレーンはまだ作家ではなく、スウェーデンのストックホルムに住んでいたパートタイムで働く主婦だった。しかし、彼女は若い頃から新聞社で働いたり、大学教授の秘書の仕事などをしており、文章を書くことを得意としていた。第二次大戦が始まった頃には「戦争日記」を記そうと決意し、持ち前のユーモアと観察力で毎日書き続けていた。
そんなある日、病気で寝込んでいた愛娘に「長くつ下のピッピ」が出てくるお話をして欲しいとせがまれて、即興で語り始めた物語が原形となった。その後、1945年に出版され、世界へと広がっていった。「奇妙な名前だから、同じように奇妙な女の子でなければならなかった」と後に語っている。
この言葉は、1978年にドイツ書店協会平和賞授賞式で語られた言葉だ。暴力と権威主義、とくに子どもたちが最も被害を受ける家庭内暴力の問題について、強く訴えようとしたこのスピーチは、挑発的だとみなされ、事前に内容を変更するよう要請があったという。しかし、リンドグレーンはそれを固辞し、スピーチに挑んだ。
権力を持つ人たちが「あらゆる状況において最も効果的な解決策として暴力を過信することによって」、国の重大な決定がなされたり、時に戦争が行われたりすることがある。もちろん逆も然りだ。その時に重要なのは、「世界の運命を決めるのは個々の人間」であり、その人間の形成には、子ども時代に、どれだけ親から愛情を注がれたか、愛情がどんなものかを教えてもらったかが重要だと述べる。愛情を注ぐことは決して好き勝手にやらせて規範がないわけではなく、親が手本となるべきだという。そして、「物事を解決するには暴力以外の別の方法があることを、わたくしたちはまずは自分の家庭で、お手本として示さなくてはならないのです」と強く断言した。
豊かな自然に囲まれて、自由闊達な日々を送る子どもたちの姿を、子どもの視点に立って描き続けたリンドグレーン。子どもの権利の擁護者としても知られる彼女の作品や発言は、スウェーデン国内だけではなく、世界中に大きな影響を与え続けている。
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