CULTURE
【本と名言365】大橋晃朗|「椅子の機能概念というものを、…」
February 15, 2024 | Culture, Design | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。同時代に活躍する建築家たちを魅了し、唯一無二の家具をデザインした大橋晃朗。多くを語らなかった彼が遺した言葉の断片から、哲学をもってデザインに挑み続ける姿勢を追いかけます。
椅子の機能概念というものを、僕自身は「台」または「台のようなもの」という言葉で捉えていたんです。
伊東豊雄、坂本一成、長谷川逸子ら、建築家とのコラボレーションでいくつもの名作家具を遺した大橋晃朗。その名はけして広く知られていると言えない。桑沢デザイン研究所を経て、文部技官として東京工業大学工学部で篠原一男に師事した大橋は、建築を学んだのち、住宅のインテリアを手がけていくうちに家具へと魅せられた。その家具はいま、香港の美術館〈M+〉、愛媛県の大三島にある〈今治市伊東豊雄建築ミュージアム〉内で再建築された伊東の旧自邸〈シルバーハット〉、さらに伊東が初期に手がけた住宅で現在は一般公開される茨城県笠間市の〈笠間の家〉などで見ることが出来る。
大橋は、家具、そして椅子とはなにかを終生追いかけたデザイナーだ。同時期に活躍した人物に倉俣史朗がおり、両者はともに桑沢デザイン研究所で学び、1990年代初頭に惜しくも早世している。デザインへのアプローチはまったく異なりつつも、素材やデザインの手法を変えながら自身のテーマに向き合った姿も共通する。大橋が建築から家具のデザインへと移行する初期は、箱物と呼ばれる収納家具を手がけた。その後、坂本一成が設計した〈代田の町家〉のためにデザインした《椅子または台のような椅子》から本格的な家具へと取り組む。この椅子はデンマークのデザイナーたちがそうしたように中国の家具を参照したもので、この本を監修した評論家の多木浩二は「台」という言葉がそれをほのめかすものだと指摘する。
実際に大橋は、多木との対談で「椅子の機能概念というものを、僕自身は「台」または「台のようなもの」という言葉で捉えていたんです」と語る。自身の暮らしにおいて椅子をあまり使ってこなかったという大橋は、日本の伝統的な家具の文脈にテーブルや椅子の存在はなく、西洋家具の歴史のなかから椅子の根源を探っていった。そこで「何千年もの間変わっていない、椅子の機能概念」として、台としての椅子を探求することをはじめる。ここで大橋は、だからといって概念的な椅子を目指すのではなく、機能や合理性で割り切るのではない曖昧な形を追いかけることで家具という文化に向き合いたかったのだという。透明の椅子という概念があるとすれば、自身はそれを直接透明にするのではないとも語るところに倉俣との大きな違いを感じる。
大橋は次いで、スチールパイプを用いた椅子、自身が購入できないほどに高額となっていく家具への批評性をこめて安価な合板による家具シリーズ《ボード・ファニチュア》を展開した。一方で多木は、大橋の家具には厳密な理性と遊びある逸脱の矛盾する要素が共存すると書いた。1980年代に入ると後者の要素が現れ、創造性豊かな作品が展開される。スチールパイプ製という現代的な椅子にユーモラスなフォルムと鮮やかな色彩を与えた《ハンナン・チェア》《フロッグ・チェア》は大橋を代表する傑作だ。さらに倉俣が《ミス・ブランチ》を発表したデザインイベントで大橋は、競技用ボールのゴムチューブを布でくるんだクッションにマットとサイドテーブルを組み合わせた《トーキョー・ミッキー・マウス》を発表。これも《ミス・ブランチ》同様、享楽的なバブル時代にデザイナーが批評性をもって応えた名作だ。
「家具とは何か、と問い続けて、では解答といわれても、それはひと言でいえない。今もいわれたようにいろいろな脈絡が錯綜している。しかしあえていえば得体の知れないものだと思うんです。曖昧で他愛もないものに取りまかれて人間が生きている。たとえばそれを生活術と呼べばそんなマイナーだと思われていることのなかに、得体の知れないものが人間をつき動かし、その結果、物が逆に人間を使っていたりするように見えてきます」
このように語った大橋を取り上げた書籍や資料は少ない。しかしすでに海外で再評価が始まったように、大橋もまた日本が誇るデザイナーの一人だ。確固たる哲学とともにデザインに挑み続ける姿勢にいまふたたび目を向けたい。
伊東豊雄、坂本一成、長谷川逸子ら、建築家とのコラボレーションでいくつもの名作家具を遺した大橋晃朗。その名はけして広く知られていると言えない。桑沢デザイン研究所を経て、文部技官として東京工業大学工学部で篠原一男に師事した大橋は、建築を学んだのち、住宅のインテリアを手がけていくうちに家具へと魅せられた。その家具はいま、香港の美術館〈M+〉、愛媛県の大三島にある〈今治市伊東豊雄建築ミュージアム〉内で再建築された伊東の旧自邸〈シルバーハット〉、さらに伊東が初期に手がけた住宅で現在は一般公開される茨城県笠間市の〈笠間の家〉などで見ることが出来る。
大橋は、家具、そして椅子とはなにかを終生追いかけたデザイナーだ。同時期に活躍した人物に倉俣史朗がおり、両者はともに桑沢デザイン研究所で学び、1990年代初頭に惜しくも早世している。デザインへのアプローチはまったく異なりつつも、素材やデザインの手法を変えながら自身のテーマに向き合った姿も共通する。大橋が建築から家具のデザインへと移行する初期は、箱物と呼ばれる収納家具を手がけた。その後、坂本一成が設計した〈代田の町家〉のためにデザインした《椅子または台のような椅子》から本格的な家具へと取り組む。この椅子はデンマークのデザイナーたちがそうしたように中国の家具を参照したもので、この本を監修した評論家の多木浩二は「台」という言葉がそれをほのめかすものだと指摘する。
実際に大橋は、多木との対談で「椅子の機能概念というものを、僕自身は「台」または「台のようなもの」という言葉で捉えていたんです」と語る。自身の暮らしにおいて椅子をあまり使ってこなかったという大橋は、日本の伝統的な家具の文脈にテーブルや椅子の存在はなく、西洋家具の歴史のなかから椅子の根源を探っていった。そこで「何千年もの間変わっていない、椅子の機能概念」として、台としての椅子を探求することをはじめる。ここで大橋は、だからといって概念的な椅子を目指すのではなく、機能や合理性で割り切るのではない曖昧な形を追いかけることで家具という文化に向き合いたかったのだという。透明の椅子という概念があるとすれば、自身はそれを直接透明にするのではないとも語るところに倉俣との大きな違いを感じる。
大橋は次いで、スチールパイプを用いた椅子、自身が購入できないほどに高額となっていく家具への批評性をこめて安価な合板による家具シリーズ《ボード・ファニチュア》を展開した。一方で多木は、大橋の家具には厳密な理性と遊びある逸脱の矛盾する要素が共存すると書いた。1980年代に入ると後者の要素が現れ、創造性豊かな作品が展開される。スチールパイプ製という現代的な椅子にユーモラスなフォルムと鮮やかな色彩を与えた《ハンナン・チェア》《フロッグ・チェア》は大橋を代表する傑作だ。さらに倉俣が《ミス・ブランチ》を発表したデザインイベントで大橋は、競技用ボールのゴムチューブを布でくるんだクッションにマットとサイドテーブルを組み合わせた《トーキョー・ミッキー・マウス》を発表。これも《ミス・ブランチ》同様、享楽的なバブル時代にデザイナーが批評性をもって応えた名作だ。
「家具とは何か、と問い続けて、では解答といわれても、それはひと言でいえない。今もいわれたようにいろいろな脈絡が錯綜している。しかしあえていえば得体の知れないものだと思うんです。曖昧で他愛もないものに取りまかれて人間が生きている。たとえばそれを生活術と呼べばそんなマイナーだと思われていることのなかに、得体の知れないものが人間をつき動かし、その結果、物が逆に人間を使っていたりするように見えてきます」
このように語った大橋を取り上げた書籍や資料は少ない。しかしすでに海外で再評価が始まったように、大橋もまた日本が誇るデザイナーの一人だ。確固たる哲学とともにデザインに挑み続ける姿勢にいまふたたび目を向けたい。
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