CULTURE
【本と名言365】リナ・ボ・バルディ|「建築とは単なるユートピアではなく、…」
February 2, 2024 | Culture, Architecture | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。2015年には日本でも展覧会が開催された南米を代表する建築家、リナ・ボ・バルディ。第二次世界大戦下のイタリアで活動をはじめ、戦後すぐにブラジルへと渡った彼女は独自の作風とデモクラシーな考えでさまざまな名建築を遺しました。そこに込めた思いを端的に示す名言とは。
建築とは単なるユートピアではなく、みんなに成果をもたらすひとつの手段なのです。
世界的に建築や家具、ジュエリーのデザインなどで再評価が進むブラジル人建築家、リナ・ボ・バルディ。「建築とは単なるユートピアではなく、みんなに成果をもたらすひとつの手段なのです」との言葉を残した彼女は、オスカー・ニーマイヤー、ルシオ・コスタ、アフォンソ・エドゥアルド・レイディらとともにブラジルのモダニズムを実現した建築家だ。一方で、女性かつ外国人であったことで功績が正しく評価されるまでに時間を要した。
イタリア・ローマに生まれたリナは、ムッソリーニ政権下の帝国主義的な建築が支配する時期に建築を学んだ。卒業後はミラノへ移り、ジオ・ポンティに師事。ポンティが自ら創刊したデザイン雑誌『ドムス』を離れることとなり、リナはともにスタジオを設立したカルロ・パガーニとともに副編集長を務めた。連合国軍に無条件降伏したイタリアが続けてドイツ軍と激しい戦闘を行っていた時期にあり、彼女はレジスタンス的な活動や政権への批判的な記事を執筆していたと後年に語っている。
戦後、1946年に美術評論家のピエトロ・マリア・バルディと結婚。彼がサンパウロ美術館に招かれたのを機にブラジルへの移住を決め、1992年に没するまでブラジルで活動を続けた。1951年にはブラジルに帰化しており、同年に名作と名高い自邸〈ガラスの家〉を建設している。リナが「建築とは単なるユートピアではなく、みんなに成果をもたらすひとつの手段なのです」と発したのは、代表作〈SESC ポンペイア文化センター〉を完成させた1986年のことだ。
サンパウロ市内にあったドラム缶工場をリノベーションした公共の多目的施設で、リナはワークショップ形式で家具を製作したほか、サイン、スタッフの制服、屋台、ポスターに至るまで総合的なデザインを行った。当初は解体予定にあった建物をすでに地元の人々がさまざまな活動を行う場になっていることを知り、その活動を増幅させる建築としてリノベーション案に変更している。1968年の〈サンパウロ美術館〉では見晴台になる予定だった敷地に対して政治的な働きかけを行うことで都市に開かれた建築を実現。世界屈指のコレクションをもつ美術館として、街のランドマークとして愛され続けている。また1984年に竣工した〈テアトロ・オフィシナ〉は軍事政権への抵抗を示した劇団の劇場で、工事中のような足場を観客席とすることで舞台と観客を一体化させた。このように彼女の建築はいつでも人々に開かれている。
彼女の名言はその本質をよく示している。イタリアの合理主義を学びつつ、ブラジルの風土と出会い、土着的な要素を積極的に取り込むことで独自の作風を展開したリナ。民衆のための建築を追い求め続けた。
世界的に建築や家具、ジュエリーのデザインなどで再評価が進むブラジル人建築家、リナ・ボ・バルディ。「建築とは単なるユートピアではなく、みんなに成果をもたらすひとつの手段なのです」との言葉を残した彼女は、オスカー・ニーマイヤー、ルシオ・コスタ、アフォンソ・エドゥアルド・レイディらとともにブラジルのモダニズムを実現した建築家だ。一方で、女性かつ外国人であったことで功績が正しく評価されるまでに時間を要した。
イタリア・ローマに生まれたリナは、ムッソリーニ政権下の帝国主義的な建築が支配する時期に建築を学んだ。卒業後はミラノへ移り、ジオ・ポンティに師事。ポンティが自ら創刊したデザイン雑誌『ドムス』を離れることとなり、リナはともにスタジオを設立したカルロ・パガーニとともに副編集長を務めた。連合国軍に無条件降伏したイタリアが続けてドイツ軍と激しい戦闘を行っていた時期にあり、彼女はレジスタンス的な活動や政権への批判的な記事を執筆していたと後年に語っている。
戦後、1946年に美術評論家のピエトロ・マリア・バルディと結婚。彼がサンパウロ美術館に招かれたのを機にブラジルへの移住を決め、1992年に没するまでブラジルで活動を続けた。1951年にはブラジルに帰化しており、同年に名作と名高い自邸〈ガラスの家〉を建設している。リナが「建築とは単なるユートピアではなく、みんなに成果をもたらすひとつの手段なのです」と発したのは、代表作〈SESC ポンペイア文化センター〉を完成させた1986年のことだ。
サンパウロ市内にあったドラム缶工場をリノベーションした公共の多目的施設で、リナはワークショップ形式で家具を製作したほか、サイン、スタッフの制服、屋台、ポスターに至るまで総合的なデザインを行った。当初は解体予定にあった建物をすでに地元の人々がさまざまな活動を行う場になっていることを知り、その活動を増幅させる建築としてリノベーション案に変更している。1968年の〈サンパウロ美術館〉では見晴台になる予定だった敷地に対して政治的な働きかけを行うことで都市に開かれた建築を実現。世界屈指のコレクションをもつ美術館として、街のランドマークとして愛され続けている。また1984年に竣工した〈テアトロ・オフィシナ〉は軍事政権への抵抗を示した劇団の劇場で、工事中のような足場を観客席とすることで舞台と観客を一体化させた。このように彼女の建築はいつでも人々に開かれている。
彼女の名言はその本質をよく示している。イタリアの合理主義を学びつつ、ブラジルの風土と出会い、土着的な要素を積極的に取り込むことで独自の作風を展開したリナ。民衆のための建築を追い求め続けた。
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