CULTURE
【本と名言365】フィリップ・ワイズベッカー|「描くことで、私が魅了されたオブジェの…」
November 2, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。几帳面な定規の線と独特なデフォルメで存在感のある日用品を描く、フィリップ・ワイズベッカー。オブジェに対する愛とそれを描く行為について。
描くことで、私が魅了されたオブジェの不可解な存在を保持できるのです。
のこぎりやはさみ、カメラ、トラック、給水塔、ジャケット、帽子、ねじ……。フィリップ・ワイズベッカーの絵のモチーフとなるのは、日用品や乗り物、建物といった私たちの暮らしで普通に見かける、何気ないものたちだ。だが、彼の手にかかると、そこらへんにある普通のものたちが独特な雰囲気をまとい、絵の中にしか存在しないものへと変化する。
几帳面に定規で引いた線、独特なオブジェのデフォルメと大胆な構図、一つひとつ違う地の肌理(きめ)と古びた紙の色。若い頃からの作品をざっと並べてみると、もちろんタッチに違いはあるが、一貫する姿勢があることがうかがえる。
ワイズベッカーが生まれたのは1942年。第二次大戦中のセネガルだ。フランス軍の高官を務めていた父の関係でフランス領を転々とし、戦後の47年にパリに移住した。9歳の時に結核予備軍の疑いをかけられ、1年間空気のいい田舎に住む叔父に預けられることになる。叔父は材木商を営む裕福な家で、よく森へ連れていってくれた。そこで、ワイズベッカーは、木こりが森で大きなエンジン駆動ののこぎりを用いて木を切る様子にすっかり魅了されてしまった。後にワイズベッカーは「この時期が私の人生を決定づけた」と語っている。
美術学校を卒業後、チュニジア観光局のデザイナーとして18ヶ月間チュニジアに派遣される。そして経験を積んだ後、ワイズベッカーが目指したのはアメリカ、ニューヨークだ。学生時代にポップアートとプッシュピンスタジオのグラフィック作品に憧れがあったからだ。「空き地が多く、道路はでこぼこ、赤レンガの建物に、くっきりした青空。でも、驚くほどエネルギーと活気に満ち溢れていた」。すっかりニューヨークの虜になってしまったのだ。一度フランスに戻って結婚をしたものの、再度ニューヨークへと戻りイラストレーションの仕事を続けていた。
しかし40歳を過ぎた頃、スランプがやってくる。妻から休むよう促され、半年仕事を休養することにした。ある日、友人に誘われて見たアール・ブリュット美術館の絵の自由さに衝撃を受けた。再びニューヨークに戻ると、彼は今までのスタイルから解放され、身近な紙、鉛筆、ボールペン、グワッシュなどをミックスした制作を始めた。その後は、クライアントワークは理解あるアートディレクターの仕事のみと決め、自身のスタイルを貫き通した。
「描くオブジェは、外観よりもその本質に関心がわきます。紙に描くことで、オブジェは立体から平面へと生まれ変わります。遠近感をゆがませ、できる限りフラットに描くことで、そのオブジェの持つ外観と本質が1枚の紙と一体化するのです。描くことで、私が魅了されたオブジェの不可解な存在を保持できるのです。」
ワイズベッカーが描くオブジェたちが確固たる存在感を持ち私たちを魅了するのは、オブジェそのものの本質がドローイングから溢れ出ているからなのだろう。
のこぎりやはさみ、カメラ、トラック、給水塔、ジャケット、帽子、ねじ……。フィリップ・ワイズベッカーの絵のモチーフとなるのは、日用品や乗り物、建物といった私たちの暮らしで普通に見かける、何気ないものたちだ。だが、彼の手にかかると、そこらへんにある普通のものたちが独特な雰囲気をまとい、絵の中にしか存在しないものへと変化する。
几帳面に定規で引いた線、独特なオブジェのデフォルメと大胆な構図、一つひとつ違う地の肌理(きめ)と古びた紙の色。若い頃からの作品をざっと並べてみると、もちろんタッチに違いはあるが、一貫する姿勢があることがうかがえる。
ワイズベッカーが生まれたのは1942年。第二次大戦中のセネガルだ。フランス軍の高官を務めていた父の関係でフランス領を転々とし、戦後の47年にパリに移住した。9歳の時に結核予備軍の疑いをかけられ、1年間空気のいい田舎に住む叔父に預けられることになる。叔父は材木商を営む裕福な家で、よく森へ連れていってくれた。そこで、ワイズベッカーは、木こりが森で大きなエンジン駆動ののこぎりを用いて木を切る様子にすっかり魅了されてしまった。後にワイズベッカーは「この時期が私の人生を決定づけた」と語っている。
美術学校を卒業後、チュニジア観光局のデザイナーとして18ヶ月間チュニジアに派遣される。そして経験を積んだ後、ワイズベッカーが目指したのはアメリカ、ニューヨークだ。学生時代にポップアートとプッシュピンスタジオのグラフィック作品に憧れがあったからだ。「空き地が多く、道路はでこぼこ、赤レンガの建物に、くっきりした青空。でも、驚くほどエネルギーと活気に満ち溢れていた」。すっかりニューヨークの虜になってしまったのだ。一度フランスに戻って結婚をしたものの、再度ニューヨークへと戻りイラストレーションの仕事を続けていた。
しかし40歳を過ぎた頃、スランプがやってくる。妻から休むよう促され、半年仕事を休養することにした。ある日、友人に誘われて見たアール・ブリュット美術館の絵の自由さに衝撃を受けた。再びニューヨークに戻ると、彼は今までのスタイルから解放され、身近な紙、鉛筆、ボールペン、グワッシュなどをミックスした制作を始めた。その後は、クライアントワークは理解あるアートディレクターの仕事のみと決め、自身のスタイルを貫き通した。
「描くオブジェは、外観よりもその本質に関心がわきます。紙に描くことで、オブジェは立体から平面へと生まれ変わります。遠近感をゆがませ、できる限りフラットに描くことで、そのオブジェの持つ外観と本質が1枚の紙と一体化するのです。描くことで、私が魅了されたオブジェの不可解な存在を保持できるのです。」
ワイズベッカーが描くオブジェたちが確固たる存在感を持ち私たちを魅了するのは、オブジェそのものの本質がドローイングから溢れ出ているからなのだろう。
フィリップ・ワイズベッカー
1942年生まれ。66年にパリの国立高等装飾美術学校を卒業。68年にニューヨークに移住し、アーティスト、イラストレーターとして広告や出版に携わる。2006年フランスに帰国。アートワークを本格的に制作開始し、欧米や日本で発表を続ける。作品集に『HAND TOOLS』(888ブックス刊)などがある。