CULTURE
【本と名言365】亀倉雄策|「世界中の民族、原語、習慣の違いを…」
October 26, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。戦後西洋文化を積極的に吸収し、現在の日本のグラフィックデザイン界を創りあげたともいえる、巨匠・亀倉雄策が考える、デザインとは。
世界中の民族、原語、習慣の違いを越えて理解し合えるような視覚的な言語がデザインだと思う。
東京オリンピックの公式ポスター。各国の選手が前のめりになりスタートダッシュをする。パンッというスタートピストルの音が鳴り、煙まで漂ってきそうな一瞬をとらえた写真だ。見た瞬間思わず息を呑み、一度見たら忘れられない。日本のグラフィックデザイン史上、最高の傑作ポスターだと言われる、グラフィックデザイナー・亀倉雄策の仕事である。
亀倉は13歳でフランスのグラフィックデザイナーであるカッサンドルのポスターに衝撃を受けた。
「カッサンドルの表現は対象を即物的に獲え、そして強烈な構成法を前面に押し出したものだ。絵描きの余技でしかなかったポスターにデザイン独自の哲学と美学を打ち立てたということだ」
と記している。その後、「少年図案家」募集という広告を見つけ太田英茂の広告事務所で職を見つけ、デザインの世界に入る。当時、デザイナーは「図案家」と呼ばれており、絵描きになれなかった人たちが生活のためにする仕事だという風潮があった。亀倉は後に、デザイナーという職業を国内外に知らしめ、デザイナーの社会的な地位を向上することに尽力した。
東京オリンピックのエンブレムが生まれたのは、開催を4年後に控えた1960年、亀倉が45歳の時である。当時活躍していたデザイナー6人によるコンペが行われた。日の丸を思わせる赤い大きな丸、その下に金色の五輪マーク、そして「TOKYO 1964」という強くシンプルなデザインだ。審査員は一目見て、亀倉案に決めたのだという。「日の丸もモダンデザインになりうると思った」と後に亀倉は記している。その次に公式ポスターの制作が行われた。当時、亀倉は日本デザインセンターの専務だったが、撮影は、ライバル会社であるライトパブリシティの早崎治と村越襄が担当した。亀倉が考えたプランを村越がスケッチにし、アメリカ空軍から募った陸上競技の選手6名とともに、何度もスタートダッシュを繰り返した。それがあの奇跡のポスターを生み出したのだ。エンブレム、そして公式ポスターが世界に知らしめた日本のデザイン力は計り知れない。
また亀倉は、戦後早い段階で渡米し、海外のデザイナーたちと交流を持ったり、国際シンポジウムに参加したり、デザイナーの職業組織を作ったりと、デザイナーの職業的基盤作りにも尽力した。そして晩年は持ち前のユーモアと鋭い口調で、デザインや時代を斬るエッセイを数多く残した。
世界中の民族、原語、習慣の違いを越えて理解し合えるような視覚的な言語がデザインだと思う。
これは、戦後アメリカのデザインに強い憧れを持ち、むさぼるように西洋文化を取り入れて、伝統を払い除けなければ新しい時代の道は拓けないと、日本の近代化を推し進めた亀倉が晩年に語った思想である。
日本が進もうとしている近代合理主義の道と、古典伝統の間に接点はあるのだろうか。(中略)デザイン文化を高めるには、民族固有の伝統に負けるのではなく、それを越えるようでなくてはならない。それには伝統を一度分解し、再構築することで、西洋と日本の接点を見出すことだ。
東京オリンピックの公式ポスター。各国の選手が前のめりになりスタートダッシュをする。パンッというスタートピストルの音が鳴り、煙まで漂ってきそうな一瞬をとらえた写真だ。見た瞬間思わず息を呑み、一度見たら忘れられない。日本のグラフィックデザイン史上、最高の傑作ポスターだと言われる、グラフィックデザイナー・亀倉雄策の仕事である。
亀倉は13歳でフランスのグラフィックデザイナーであるカッサンドルのポスターに衝撃を受けた。
「カッサンドルの表現は対象を即物的に獲え、そして強烈な構成法を前面に押し出したものだ。絵描きの余技でしかなかったポスターにデザイン独自の哲学と美学を打ち立てたということだ」
と記している。その後、「少年図案家」募集という広告を見つけ太田英茂の広告事務所で職を見つけ、デザインの世界に入る。当時、デザイナーは「図案家」と呼ばれており、絵描きになれなかった人たちが生活のためにする仕事だという風潮があった。亀倉は後に、デザイナーという職業を国内外に知らしめ、デザイナーの社会的な地位を向上することに尽力した。
東京オリンピックのエンブレムが生まれたのは、開催を4年後に控えた1960年、亀倉が45歳の時である。当時活躍していたデザイナー6人によるコンペが行われた。日の丸を思わせる赤い大きな丸、その下に金色の五輪マーク、そして「TOKYO 1964」という強くシンプルなデザインだ。審査員は一目見て、亀倉案に決めたのだという。「日の丸もモダンデザインになりうると思った」と後に亀倉は記している。その次に公式ポスターの制作が行われた。当時、亀倉は日本デザインセンターの専務だったが、撮影は、ライバル会社であるライトパブリシティの早崎治と村越襄が担当した。亀倉が考えたプランを村越がスケッチにし、アメリカ空軍から募った陸上競技の選手6名とともに、何度もスタートダッシュを繰り返した。それがあの奇跡のポスターを生み出したのだ。エンブレム、そして公式ポスターが世界に知らしめた日本のデザイン力は計り知れない。
また亀倉は、戦後早い段階で渡米し、海外のデザイナーたちと交流を持ったり、国際シンポジウムに参加したり、デザイナーの職業組織を作ったりと、デザイナーの職業的基盤作りにも尽力した。そして晩年は持ち前のユーモアと鋭い口調で、デザインや時代を斬るエッセイを数多く残した。
世界中の民族、原語、習慣の違いを越えて理解し合えるような視覚的な言語がデザインだと思う。
これは、戦後アメリカのデザインに強い憧れを持ち、むさぼるように西洋文化を取り入れて、伝統を払い除けなければ新しい時代の道は拓けないと、日本の近代化を推し進めた亀倉が晩年に語った思想である。
日本が進もうとしている近代合理主義の道と、古典伝統の間に接点はあるのだろうか。(中略)デザイン文化を高めるには、民族固有の伝統に負けるのではなく、それを越えるようでなくてはならない。それには伝統を一度分解し、再構築することで、西洋と日本の接点を見出すことだ。
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