CULTURE
【本と名言365】高田賢三|「冒険心が私の人生…」
October 20, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。日本人としていち早く、パリのファッション界で大きな活躍を見せたデザイナーが高田賢三だ。その波瀾万丈の人生を通じて、彼が原動力としたものはいったいなにか。
冒険心が私の人生と創造の原動力になっている。
ファッションにおいて日本人デザイナーとして初めて世界的な成功を収め、その名を冠したファッションブランド〈KENZO〉がいまも世界的に愛される高田賢三。1970年代からフランス・パリを拠点に活躍した高田は、伝統やルールに縛られない斬新なデザイン、そして生き方を貫いた人物だ。その成功と失敗、自身の歩みを赤裸々に語り下ろした回顧録の結びでは「冒険心が私の人生と創造の原動力になっている」と語る。
高田は1939年、花街の待合を営む両親のもとに生まれる。女性に囲まれて育ち、姉も洋裁の勉強をしていたことから服飾に興味をもった。しかし当時の日本に男性を受け入れる服飾学校はなく、神戸外国語大学に進学。しかし文化服装学院が男子生徒の入学を始めると知った高田は大学を中退し、文化服装学院に入学する。ここで後に「花の9期生」と呼ばれるコシノジュンコ、松田光弘、金子功らと出会う。卒業後は東京でデザイン職に就いたが、1964年に横浜港を出港してパリに渡る。
1970年4月、高田はあえて差別用語を用いたブティック〈ジャングル・ジャップ〉をパリに開く。それとともに日本から取り寄せた着物生地などを使って小さなショーを開き、これが話題を呼んで雑誌『エル』の表紙を飾る。パリ・コレクションにデビューした高田はこの後もユニークな手法でショーを開催し、これまでのファッションにはない新たな概念を次々打ち出した。鮮やかな色彩や花柄を用い、世界のさまざまな民族衣装からエッセンスを取り入れた衣服。ユニークな場所で音楽とともにパーティーのような感覚で行うファッションショー。こうした提案は当時実に新しく、その評価を高めていく。
しかし1980年代に入るとブランドは拡大傾向を強め、後半には経営難へ陥る。1993年、LVMHが〈ケンゾー〉の株式を買い取る形で新会社を設立。高田賢三は創作活動に専念することになったが、経営側との意見の相異から1999年にブランドから離れた。その後もアテネオリンピック日本選手団の制服を手掛けるなど、晩年まで創作を追い続けた。回顧録から抜き出した言葉には前があり、「子どもっぽいと人から笑われてもいい。どんなときも、決して失敗を恐れず、果敢に挑戦する。何歳になってもイタズラ心を忘れない。そんな冒険心が私の人生と創造の原動力になっている。」と続く。若い時から映画を愛した高田の人生もまた、映画のようにドラマティックで波乱に満ちている。しかし生来の明るさに起因するのか、回顧録はどんな失敗にも前を向く姿が描かれる。才能や努力はもちろんだが、さらに前を向く力こそ強さを秘めているのだと高田は教えてくれる。
ファッションにおいて日本人デザイナーとして初めて世界的な成功を収め、その名を冠したファッションブランド〈KENZO〉がいまも世界的に愛される高田賢三。1970年代からフランス・パリを拠点に活躍した高田は、伝統やルールに縛られない斬新なデザイン、そして生き方を貫いた人物だ。その成功と失敗、自身の歩みを赤裸々に語り下ろした回顧録の結びでは「冒険心が私の人生と創造の原動力になっている」と語る。
高田は1939年、花街の待合を営む両親のもとに生まれる。女性に囲まれて育ち、姉も洋裁の勉強をしていたことから服飾に興味をもった。しかし当時の日本に男性を受け入れる服飾学校はなく、神戸外国語大学に進学。しかし文化服装学院が男子生徒の入学を始めると知った高田は大学を中退し、文化服装学院に入学する。ここで後に「花の9期生」と呼ばれるコシノジュンコ、松田光弘、金子功らと出会う。卒業後は東京でデザイン職に就いたが、1964年に横浜港を出港してパリに渡る。
1970年4月、高田はあえて差別用語を用いたブティック〈ジャングル・ジャップ〉をパリに開く。それとともに日本から取り寄せた着物生地などを使って小さなショーを開き、これが話題を呼んで雑誌『エル』の表紙を飾る。パリ・コレクションにデビューした高田はこの後もユニークな手法でショーを開催し、これまでのファッションにはない新たな概念を次々打ち出した。鮮やかな色彩や花柄を用い、世界のさまざまな民族衣装からエッセンスを取り入れた衣服。ユニークな場所で音楽とともにパーティーのような感覚で行うファッションショー。こうした提案は当時実に新しく、その評価を高めていく。
しかし1980年代に入るとブランドは拡大傾向を強め、後半には経営難へ陥る。1993年、LVMHが〈ケンゾー〉の株式を買い取る形で新会社を設立。高田賢三は創作活動に専念することになったが、経営側との意見の相異から1999年にブランドから離れた。その後もアテネオリンピック日本選手団の制服を手掛けるなど、晩年まで創作を追い続けた。回顧録から抜き出した言葉には前があり、「子どもっぽいと人から笑われてもいい。どんなときも、決して失敗を恐れず、果敢に挑戦する。何歳になってもイタズラ心を忘れない。そんな冒険心が私の人生と創造の原動力になっている。」と続く。若い時から映画を愛した高田の人生もまた、映画のようにドラマティックで波乱に満ちている。しかし生来の明るさに起因するのか、回顧録はどんな失敗にも前を向く姿が描かれる。才能や努力はもちろんだが、さらに前を向く力こそ強さを秘めているのだと高田は教えてくれる。
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