CULTURE
【本と名言365】バーナード・リーチ|「美と洗練と魅力がなければ、…」
October 7, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。柳宗悦とともに「民藝運動」を推し進め、東洋と西洋の掛け橋となった陶芸家でありデザイナーのバーナード・リーチが一生かけて唱えた信念とは。
美と洗練と魅力がなければ、実利の充実あるいは完全な実現はありえない
東洋の精神性、そして用の美に魅せられ柳宋悦ら白樺派と深い親交を結び、日本民藝館の設立にも尽力した、イギリス人陶芸家バーナード・リーチ。東洋人よりも東洋の陶芸を知り尽くし、英国の陶芸についても見識を深め、自身の作陶へとつなげていった。民藝運動の中心人物である柳宋悦はリーチについてこう語っている。
「彼の作品の特性は東と西の融合にあろう。彼のすべての思想、生活、努力はこの一点に集中されてきた。血を英国人として受け、シナで生まれ、ロンドンで育ち、焼き物を日本で学び、今英国で仕事している彼には、この東西の結合こそ彼の一生の特別な仕事となっているのである」
リーチが東洋と西洋の掛け橋になったきっかけは、自身の出自にある。彼が生まれたのは1887年の香港、その後日本へと移り4歳まで過ごす。その後、父の転勤にともない香港、シンガポールを経て、1897年、10歳でイギリスへと戻る。芸術家を目指し、美術学校へと入学し、その後エッチングの技法を学んだ。その際に、ロンドン留学中であった彫刻家の高村光太郎と出会い、日本への郷愁を募らせるようになる。
憧れの日本に渡ってきたのは、1909年、リーチ21歳の時である。上野に居を構え、エッチングの指導を行った。この時、生涯の友となる柳宋悦らと出会う。同時期に陶芸家の富本憲吉に出会い、茶道具への興味を募らせる。そして1912年、6代尾形乾山に師事。千葉県我孫子に窯を開き陶芸家として活動を始める。その後陶芸家の濱田庄司とも交友を深め、一緒にイギリスのセント・アイヴスへと出向き、日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には自身の窯であるリーチ・ポタリーを開く。
当時の西洋では、陶芸は絵画や彫刻などと比べ低い芸術だと考えられており、手工芸品は工業製品と比べて劣るものだと考えられていた。しかし、リーチは陶磁器を、生活様式の中における芸術や哲学、デザイン、工芸が融合したものだと考えていた。例えば、楽の茶碗については下記のように記している。
「禅の哲学の影響を受けた茶の宗匠たちは、土を直接、素朴に扱うことへの、この意識した復帰に特異な、喜びを感じた。しかし、姿と模様が優れて均斉がとれている環境に住むわれわれ西洋人には、かかる茶碗の巧緻な不均斉の韻律を、干渉することが困難である」
また、リーチは柳の唱える民藝運動に共感を示し、純粋芸術としての技巧を極めた陶芸作品よりも生活の中で使用される日用品としての作陶に共鳴したが、「美と洗練と魅力がなければ、実利の充実あるいは完全な実現はありえない」と言い、日用品を使う喜びの重要性を説いた。そして、英国の伝統技法であるスリップウェアの技法を復活させたのだ。
ヨーロッパと東アジアの陶磁器を研究し続け、東アジアの造形と審美眼をイギリスのスタジオへと導入したリーチ。日本人以上に民藝の心を理解したとも言われる彼の研究は一冊の本『陶工の本(A Potter’s Book)』にまとめられ、現在でも多くの陶芸家たちに受け継がれている。
東洋の精神性、そして用の美に魅せられ柳宋悦ら白樺派と深い親交を結び、日本民藝館の設立にも尽力した、イギリス人陶芸家バーナード・リーチ。東洋人よりも東洋の陶芸を知り尽くし、英国の陶芸についても見識を深め、自身の作陶へとつなげていった。民藝運動の中心人物である柳宋悦はリーチについてこう語っている。
「彼の作品の特性は東と西の融合にあろう。彼のすべての思想、生活、努力はこの一点に集中されてきた。血を英国人として受け、シナで生まれ、ロンドンで育ち、焼き物を日本で学び、今英国で仕事している彼には、この東西の結合こそ彼の一生の特別な仕事となっているのである」
リーチが東洋と西洋の掛け橋になったきっかけは、自身の出自にある。彼が生まれたのは1887年の香港、その後日本へと移り4歳まで過ごす。その後、父の転勤にともない香港、シンガポールを経て、1897年、10歳でイギリスへと戻る。芸術家を目指し、美術学校へと入学し、その後エッチングの技法を学んだ。その際に、ロンドン留学中であった彫刻家の高村光太郎と出会い、日本への郷愁を募らせるようになる。
憧れの日本に渡ってきたのは、1909年、リーチ21歳の時である。上野に居を構え、エッチングの指導を行った。この時、生涯の友となる柳宋悦らと出会う。同時期に陶芸家の富本憲吉に出会い、茶道具への興味を募らせる。そして1912年、6代尾形乾山に師事。千葉県我孫子に窯を開き陶芸家として活動を始める。その後陶芸家の濱田庄司とも交友を深め、一緒にイギリスのセント・アイヴスへと出向き、日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には自身の窯であるリーチ・ポタリーを開く。
当時の西洋では、陶芸は絵画や彫刻などと比べ低い芸術だと考えられており、手工芸品は工業製品と比べて劣るものだと考えられていた。しかし、リーチは陶磁器を、生活様式の中における芸術や哲学、デザイン、工芸が融合したものだと考えていた。例えば、楽の茶碗については下記のように記している。
「禅の哲学の影響を受けた茶の宗匠たちは、土を直接、素朴に扱うことへの、この意識した復帰に特異な、喜びを感じた。しかし、姿と模様が優れて均斉がとれている環境に住むわれわれ西洋人には、かかる茶碗の巧緻な不均斉の韻律を、干渉することが困難である」
また、リーチは柳の唱える民藝運動に共感を示し、純粋芸術としての技巧を極めた陶芸作品よりも生活の中で使用される日用品としての作陶に共鳴したが、「美と洗練と魅力がなければ、実利の充実あるいは完全な実現はありえない」と言い、日用品を使う喜びの重要性を説いた。そして、英国の伝統技法であるスリップウェアの技法を復活させたのだ。
ヨーロッパと東アジアの陶磁器を研究し続け、東アジアの造形と審美眼をイギリスのスタジオへと導入したリーチ。日本人以上に民藝の心を理解したとも言われる彼の研究は一冊の本『陶工の本(A Potter’s Book)』にまとめられ、現在でも多くの陶芸家たちに受け継がれている。
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