CULTURE
【本と名言365】レイモン・サヴィニャック|「静止したギャグ、描かれた道化が、自分には…」
September 28, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。モンサヴォン牛乳石鹸や食前酒チンザノ、ビックのボールペン……。数々のユーモア溢れるポスターを世に送り出したフランスのポスター作家レイモン・サヴィニャック。自身を「グラフィックの大道芸人」と言い、人々を笑顔にし続けた彼の哲学。
静止したギャグ、描かれた道化が、自分には望ましい(中略)笑いで、健康さで、そして楽しさで物を売るということ
「私は『モンサヴォン石鹸』の牝牛の乳房から生まれた。41歳の時だ」。という言葉も有名なフランスのポスター作家、レイモン・サヴィニャック。牛の乳から石鹸が出来ていることを一目で表した「Monsavon au lait(モンサヴォン牛乳石鹸)」、口の周りが茶色くし子どもがチョコレートを頬張っている「Chocolat Tobler(トブラーチョコレート)」、ダンロップのタイヤ、ビックのボールペン、日本でも展開されたシロクマが微笑む「としまえん」や、巨大なチョコレートを頬張る子を描いた「森永ミルクチョコレート」の広告。パッと見ただけでイメージが伝わり、見るものをくすりと笑わせ、幸せな気分にさせる。サヴィニャックのポスターは、それ自体で作品として販売もされており、当時の広告を知らない人たちでもきっと親しみがあるだろう。
彼が生まれたのは1907年のパリ、第一次世界大戦より前の時代であり、公立小学校に通い、両親は労働者向けの大衆食堂を営んでいた。学校の成績はイマイチだったが文芸の授業は好きで本をよく読む青年だった。青少年クラブでは演劇に没頭し、母親が好きだったこともあり通ったコメディ・フランセーズ(フランス国立劇場)では、芸術家たちに魅了された。「夢を見るため」にさまざまな劇場へと通い詰めた。また、絵を描くこともサヴィニャック少年の楽しみのひとつだった。15歳の時、学校を辞めて働きたいと両親に申し出る。何をするの?と聞かれた少年は、よく意味もわからずに「デザイン画家になる」と答えたという。
その後1925年から、サヴィニャックは小さなアニメーションスタジオを立ち上げたロベール・ロルタックのもとで働き始める。面白い仲間とは出会ったが、アニメ制作の現場で彼は才能は活かせないままでいた。しかし転機が訪れる。アニメのエンディングに流れる広告やポスターのトレース作業に携わったのだ。「当時の広告ポスターは革新の真っただ中にあった。毎週のごとく面白いポスターが登場する。街の壁は広告ポスターで燃え上がり、私たちの網膜と小脳を焦がした」、彼はポスターの虜になり、ポスター作家を志す。そして1935年、当時グラフィックデザイナーとして活躍していたカッサンドルの工房で働く。
そして、時代は第二次世界大戦へ。サヴィニャックがモンサヴォン石鹸のポスターが認められ、一躍有名になるのは1949年。その後はポスター作家として活躍を続け、94歳で亡くなる直前まで精力的に制作を続けた。彼は、アニメーションでもイラストレーションでもデッサン(マンガ)でもなく、ポスター画家という自分の仕事に誇りを持ち「幸せな仕事」だと言い続けた。「ポスターの仕事では、私はひとりで自分の見世物を上演することができる。同時に作者で演出家で役者でいることができる(中略) それが私の愛するすべてでもある」とも言っている。友人はたくさんいたが、決して群れることなく、自身の美学を貫き通した。
「私は『モンサヴォン石鹸』の牝牛の乳房から生まれた。41歳の時だ」。という言葉も有名なフランスのポスター作家、レイモン・サヴィニャック。牛の乳から石鹸が出来ていることを一目で表した「Monsavon au lait(モンサヴォン牛乳石鹸)」、口の周りが茶色くし子どもがチョコレートを頬張っている「Chocolat Tobler(トブラーチョコレート)」、ダンロップのタイヤ、ビックのボールペン、日本でも展開されたシロクマが微笑む「としまえん」や、巨大なチョコレートを頬張る子を描いた「森永ミルクチョコレート」の広告。パッと見ただけでイメージが伝わり、見るものをくすりと笑わせ、幸せな気分にさせる。サヴィニャックのポスターは、それ自体で作品として販売もされており、当時の広告を知らない人たちでもきっと親しみがあるだろう。
彼が生まれたのは1907年のパリ、第一次世界大戦より前の時代であり、公立小学校に通い、両親は労働者向けの大衆食堂を営んでいた。学校の成績はイマイチだったが文芸の授業は好きで本をよく読む青年だった。青少年クラブでは演劇に没頭し、母親が好きだったこともあり通ったコメディ・フランセーズ(フランス国立劇場)では、芸術家たちに魅了された。「夢を見るため」にさまざまな劇場へと通い詰めた。また、絵を描くこともサヴィニャック少年の楽しみのひとつだった。15歳の時、学校を辞めて働きたいと両親に申し出る。何をするの?と聞かれた少年は、よく意味もわからずに「デザイン画家になる」と答えたという。
その後1925年から、サヴィニャックは小さなアニメーションスタジオを立ち上げたロベール・ロルタックのもとで働き始める。面白い仲間とは出会ったが、アニメ制作の現場で彼は才能は活かせないままでいた。しかし転機が訪れる。アニメのエンディングに流れる広告やポスターのトレース作業に携わったのだ。「当時の広告ポスターは革新の真っただ中にあった。毎週のごとく面白いポスターが登場する。街の壁は広告ポスターで燃え上がり、私たちの網膜と小脳を焦がした」、彼はポスターの虜になり、ポスター作家を志す。そして1935年、当時グラフィックデザイナーとして活躍していたカッサンドルの工房で働く。
そして、時代は第二次世界大戦へ。サヴィニャックがモンサヴォン石鹸のポスターが認められ、一躍有名になるのは1949年。その後はポスター作家として活躍を続け、94歳で亡くなる直前まで精力的に制作を続けた。彼は、アニメーションでもイラストレーションでもデッサン(マンガ)でもなく、ポスター画家という自分の仕事に誇りを持ち「幸せな仕事」だと言い続けた。「ポスターの仕事では、私はひとりで自分の見世物を上演することができる。同時に作者で演出家で役者でいることができる(中略) それが私の愛するすべてでもある」とも言っている。友人はたくさんいたが、決して群れることなく、自身の美学を貫き通した。
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