ARCHITECTURE
【もうすぐなくなる日本の名建築】桂設計〈日比谷公園大音楽堂〉
May 20, 2024 | Architecture | casabrutus.com | photo_Satoshi Nagare text_Tatsuo Iso
閉館や解体を迎える、または検討されている国内の名建築を紹介する連載『もうすぐなくなる日本の名建築』。第3回目は桂建築設計事務所(現・桂設計)の手がけた〈日比谷公園大音楽堂〉を訪ねます。「野音」の愛称で親しまれ、音楽の聖地として長きにわたり愛される音楽堂の歴史をひもときながら、その建築の魅力に迫ります。
「野音(やおん)」の名前で親しまれている、日比谷公園内にある大音楽堂は、東京のど真ん中にあって、光と風を感じながら生の音楽を楽しめるユニークな施設だ。ここでは幾多の著名なミュージシャンが、歴史に残る名演を繰り広げてきた。日比谷公園が段階的な再整備を進めているなかで、この施設も建て替え工事に入ることが予定されている。音楽ファンにとって伝説の地となっているこの会場へ、その最後となるかもしれない姿を目に焼き付けるため、足を運んだ。
「野音」の正式名称は〈日比谷公園大音楽堂〉という。公園内には小音楽堂もあり、そちらは噴水がある広場に面して設けられているが、大音楽堂が位置するのは南西の隅部である。ステージを囲むように扇形の客席が配置され、立ち見席、車椅子席を合わせると、3,053名を収容する。ステージには屋根がかかるが、客席は完全なオープンエアだ。ライブが催されるのは土・日曜と祝日に限定されている(試行的に開催している期間も含める)。公演はロックやアイドルポップスなど、ポピュラー系の音楽が多い。
自分も観客として何度かここを訪れた。ビジネス街や官庁群がすぐ近くに迫る場所で、大音量の音楽を聴く体験には、他では味わえない非日常性を感じる。日が暮れていくにつれ、ライブが盛り上がっていき、ステージへと集中できる感じもよい。夜風が肌を撫でる感触がまた心地よく、忘れられない思い出が残る。都内のライブ会場のなかでも、ここは特別な場所だ。
「野音」の正式名称は〈日比谷公園大音楽堂〉という。公園内には小音楽堂もあり、そちらは噴水がある広場に面して設けられているが、大音楽堂が位置するのは南西の隅部である。ステージを囲むように扇形の客席が配置され、立ち見席、車椅子席を合わせると、3,053名を収容する。ステージには屋根がかかるが、客席は完全なオープンエアだ。ライブが催されるのは土・日曜と祝日に限定されている(試行的に開催している期間も含める)。公演はロックやアイドルポップスなど、ポピュラー系の音楽が多い。
自分も観客として何度かここを訪れた。ビジネス街や官庁群がすぐ近くに迫る場所で、大音量の音楽を聴く体験には、他では味わえない非日常性を感じる。日が暮れていくにつれ、ライブが盛り上がっていき、ステージへと集中できる感じもよい。夜風が肌を撫でる感触がまた心地よく、忘れられない思い出が残る。都内のライブ会場のなかでも、ここは特別な場所だ。
〈日比谷公園〉は、林学博士の本多静六による設計案をもとにして、明治36年(1903年)に開園した。日本初の洋式公園とされるが、完全な西洋式ではなく、心字池や築山など日本庭園の手法も取り入れたものである。明治の庶民は、〈日比谷公園〉で初めて、3つの「洋」と出会ったとされる。ひとつめは「洋花」で、チューリップやパンジーといった外国原産の花のこと。二つ目は「洋食」で、公園内で営業するレストラン〈松本楼〉で味わうカレーやコーヒーのこと。そして三つ目が「洋楽」で、開園してまもなくバンド用のステージが設けられ、軍楽隊の演奏会が催されていた。音楽と公園は、最初から結び付いたものだった。
〈日比谷公園大音楽堂〉が開設されたのは、1923年のこと。軍楽隊の演奏会のほか、舞踏会やボクシングの試合会場などしても使われたという。1954年に建て替えられ、以後、ポピュラー音楽の歴史を彩る数々の伝説のライブが催された。1970年代には、岡林信康や五つの赤い風船といったフォークソングの大物が上演。並行して頭脳警察やフラワー・トラヴェリン・バンドといったロックバンドも、現在のフェスにつながるイベントの形式で共演するようになっていく。その後も続々と大物ミュージシャンがこのステージに上がる。キャロルが解散コンサートを行い、そこからソロになった矢沢永吉が翌年にライブを打ったのもここ。人気絶頂だったキャンディーズがライブ中に解散を宣言したのも、この舞台だった。
そして1983年に再び建て替えられる。これが現在の大音楽堂である。三代目に代わってからもミュージシャンたちから愛され、幾多の名演がここで繰り広げられた。1987年には女性のミュージシャンだけが登場するライブが『NAONのYAON』の名前でシリーズ化するなど、「野音」はポピュラー音楽の聖地としてのブランドを築いた。
〈日比谷公園大音楽堂〉が開設されたのは、1923年のこと。軍楽隊の演奏会のほか、舞踏会やボクシングの試合会場などしても使われたという。1954年に建て替えられ、以後、ポピュラー音楽の歴史を彩る数々の伝説のライブが催された。1970年代には、岡林信康や五つの赤い風船といったフォークソングの大物が上演。並行して頭脳警察やフラワー・トラヴェリン・バンドといったロックバンドも、現在のフェスにつながるイベントの形式で共演するようになっていく。その後も続々と大物ミュージシャンがこのステージに上がる。キャロルが解散コンサートを行い、そこからソロになった矢沢永吉が翌年にライブを打ったのもここ。人気絶頂だったキャンディーズがライブ中に解散を宣言したのも、この舞台だった。
そして1983年に再び建て替えられる。これが現在の大音楽堂である。三代目に代わってからもミュージシャンたちから愛され、幾多の名演がここで繰り広げられた。1987年には女性のミュージシャンだけが登場するライブが『NAONのYAON』の名前でシリーズ化するなど、「野音」はポピュラー音楽の聖地としてのブランドを築いた。
Loading...
Loading...