ル・コルビュジエは画家になりたかった?|青野尚子の今週末見るべきアート | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

ル・コルビュジエは画家になりたかった?|青野尚子の今週末見るべきアート

1918年にル・コルビュジエが提唱した芸術運動「ピュリスム」にスポットをあてた展覧会が、彼が本館を設計した〈国立西洋美術館〉で2月19日からはじまりました。本当は画家になりたかった彼の、絵画と建築の関係が見えてきます。

〈国立西洋美術館〉。ル・コルビュジエの残した美術館建築の中でも、もっとも質の高い作品だ。
「ピュリスム」とは第一次世界大戦後の1918年末にル・コルビュジエと画家のアメデ・オザンファンが提唱した概念だ。オザンファンはル・コルビュジエより1歳上の画家で、2人はヨーロッパ各地を遍歴した後、1917年にパリで出会った。彼は建築家のオーギュスト・ペレと親しく、ペレの下で働いていたル・コルビュジエとそこで接点があった。この頃、ル・コルビュジエは本名のシャルル=エドゥアール・ジャンヌレを名乗っている。オザンファンはル・コルビュジエに油絵を教え、1920年からはともに雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』を刊行した。ル・コルビュジエはジャンヌレが『エスプリ・ヌーヴォー』で使っていたペンネームだ。
ル・コルビュジエとアメデ・オザンファンが共同で発行していた雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』。1920年の創刊から1925年の終刊まで、28号が発行された。
「ピュリスム」は、あえて訳せば「純粋主義」となる。戦争中のフランスでは本来フランスの文化に備わっていた理性や秩序、合理性が戦前の時代に外国の影響で失われてしまったという主張が広まった。戦争の終結を機に、失われたフランスの精神を取り戻し、構築と統合を重視した芸術を打ち立てよう、というのがピュリスムだった。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《多数のオブジェのある静物》(1923年)。1921年にラ・ロシュのためのオークションでピカソらのキュビスム作品を間近に見る機会があったル・コルビュジエの絵画は、レイヤーを重ねたような複雑なものへと変化していく。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924年)。後期ピュリスムに分類される作品。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《多数のオブジェのある静物》(1923年)。1921年にラ・ロシュのためのオークションでピカソらのキュビスム作品を間近に見る機会があったル・コルビュジエの絵画は、レイヤーを重ねたような複雑なものへと変化していく。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《エスプリ・ヌーヴォー館の静物》(1924年)。後期ピュリスムに分類される作品。
秩序や機能性・合理性を重んじるピュリスムでは形が優先され、色彩は形態に従属するとされる。強い色を使うと絵の中の空間を壊してしまうので白や茶、灰色、ベージュといった淡い色が中心だ。モチーフにはコップやワインボトルなど、身近な日用品が多い。それらは長い時間を経て機能的にも経済的にもムダのない、洗練された完全な形になったと考えられるからだ。
アメデ・オザンファン《ヴァイオリンのある静物》(左・1919年頃)、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《赤いヴァイオリンのある静物》(右・1920年)。同じモチーフを描いていてもオザンファンは平面的、ル・コルビュジエは奥行きなど三次元の表現に興味を持っていることがわかる。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《垂直のギター》(第1作・1920年)。ピュリスム絵画らしい、かっちりした印象。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《青い背景に白い水差しのある静物》(1919年)。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《積み重ねた皿、三角定規、開いた本のある静物》(1919年)。初期ピュリスム絵画の1点。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《垂直のギター》(第1作・1920年)。ピュリスム絵画らしい、かっちりした印象。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《青い背景に白い水差しのある静物》(1919年)。
シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)《積み重ねた皿、三角定規、開いた本のある静物》(1919年)。初期ピュリスム絵画の1点。
こうして絵画を重視していたル・コルビュジエだが、その内容は少しずつ変化していく。1921年にル・コルビュジエとオザンファンは、2人を支援していた銀行家でアート・コレクターであるラ・ロシュのために、オークションでピカソやブラック、レジェらの絵を購入する。彼らはそれまでキュビスムに対して批判的だったが、ル・コルビュジエはその良さを改めて認識することになった。これをきっかけに彼は、規則に縛られたピュリスムのあり方に疑問を持つようになる。