パウル・クレーがチュニジアから持ち帰ったもの|鈴木芳雄の「本と展覧会」 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

パウル・クレーがチュニジアから持ち帰ったもの|鈴木芳雄の「本と展覧会」

画家パウル・クレーの絵を見るとき、いつ描かれたのかをチェックするのは必然である。なぜなら、彼の画業に大きな影響を与えたのは、1914年、画家仲間と行った北アフリカ、チュニジアへの旅だったからだ。船で大陸を渡り、かの地の強烈な光の洗礼を受けたその旅の前と後では明らかに色彩感覚が変わっている。クレーの日記をひもといてみる。

『トライアローグ:横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション』に5点出品されているクレー作品の一つ《蛾の踊り》パウル・クレー《蛾の踊り》1923年 油彩転写・鉛筆・水彩、紙 愛知県美術館蔵。横浜美術館での展示風景より。 photo_Shin-ichi Yokoyama
〈愛知県美術館〉で現在開催中の『トライアローグ 横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館 20世紀西洋美術コレクション』は3館に共通するコレクションの特徴である20世紀西洋美術をテーマにした展覧会だ。これらの美術館はいずれも1980年代から90年代初頭に開館している。

「トライアローグ(trialogue)」といわれても瞬間わからないのだが、三者会談、鼎談という意味だ。接頭辞「tri-」が3を表すわけだし。ちなみに「モノローグ(monologue)」が一人語り、独白、「ダイアローグ(dialogue)」が対談。馴染みはない言葉だけれども、3つの美術館がそれぞれ作品を持ち寄って一つの会場で展示することで補完しあい、相乗効果を狙った展覧会につけたタイトルとしてはなかなか粋な命名といえる。

この展覧会にはピカソ、マティス、マグリット、ダリ、ポロック、ウォーホル、リヒターなどの名品120点が出品されている。また、クレーの絵が5点会しているので特にここではクレーについて書いておきたい。
パウル・クレー《女の館》1921年 油彩、厚紙 愛知県美術館蔵。
パウル・クレー(1879年〜1940年)。スイスに生まれたドイツ人の画家、教育者、音楽家。1898年に画家を志してミュンヘンに出たのち、1911年に「青騎士」に参加。ヴァシリィ・カンディンスキーやフランツ・マルクらと親交を結ぶ。1921年から10年余りにわたり、バウハウスで教鞭を執るが、ナチスの弾圧を受け、1933年、生まれ故郷のスイスに亡命した。

クレーの活動を語るとき、必ず触れられるのが、1914年、画家仲間とともに出かけた北アフリカ、チュニジアへの旅の影響である。この展覧会のカタログの中でも「1914年のチュニジア旅行で、当地の鮮やかな光に感銘を受け、豊饒な色彩と深い詩情に特徴づけられる画風を確立。」とある。これは、クレー自身の日記に書かれたことを要約している。チュニジア旅行中の1914年4月16日、古都カイルアンで書かれたものの一部だ。

「なにか知らぬが、心深く、なごやかに染み渡るものがある。それを感ずると、私の心は安らぐ。齷齪するまでもない。色は、私を捉えた。自分のほうから色を探し求めるまでもない。私には、よくわかる。色は、私を永遠に捉えたのだ。私と色とは一体だ――これこそ幸福なひとときでなくて何であろうか。私は、絵描きなのだ。」パウル・クレー著 南原実 訳『クレーの日記』(新潮社 1961年)
『クレーの日記』(新潮社 1961年)
この『クレーの日記』の原書の出版は1957年、日本語の全訳は1961年。それからおよそ30年の時を経て、1988年、『クレーの日記』の原書新版が出版された。その新版の日本語訳は2009年に出版された。1957年版はパウル・クレーの息子フェリックス・クレーが父パウルの没後に残された4冊のノートの内容を整理し編纂したもの。1988年の新版は、パウル・クレー財団の研究者の手で再検証が行われている。絵のみならず、詩や散文を書くことにひとかたならぬ熱意を持っていたクレーが文章に巧んで手を入れたり、編集したことを汲み取り、そんなクレーの趣旨を読み取れる配慮をし、新版のリリースとなった。

上述の引用部分は新版ではこのようになっている。

「すべてがこんなにも深く、こんなにも優しく私の中に染み通ってくる。私はそれを感じ、確信を深めている。あくせくすることもなく。色彩が私を捉えたのだ。もう手を伸ばして色彩を追い求めることはない。色彩は私を永遠に捉えた、私にはそれがわかる。この至福の時が意味するのは、私と色彩はひとつだということ。私は、画家だということ。」パウル・クレー著 ヴォルフガング・ケルステン編 高橋文子 訳『新版 クレーの日記』(みすず書房 2009年)

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