CULTURE
本多静六の名言「では私の首を…」【本と名言365】
May 27, 2024 | Culture, Design | casabrutus.com | photo_Yuki Sonoyama text_Toko Suzuki illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。いまから123年前、命を賭して1本の古木を守ろうとした本多静六の名言とは?
では(その木に)私の首を賭けましょう
昨年他界した音楽家・坂本龍一が死の直前、東京都庁の小池百合子都知事に請願書をしたためて中止を訴えた、明治神宮外苑地区の再開発工事。約3000本の樹木が伐採される再開発プロジェクトは依然として議論が続いている。
いまから123年前、同じように命を賭して1本の古木を守ろうとした人がいた。日本初の林学博士・本多静六である。
本多が身を挺して守ったのは、日比谷交差点にある樹齢400年と推定される1本のイチョウの木。日比谷通りの拡幅工事で伐採されかかっていた時、たまたま通りかかった本多は烈火のごとく怒って、工事を強引に中断させた。
その後、本多は東京市参事会議長の星亨に会いに行き、自分が自腹を切って日比谷公園に移植するので工事を中止してほしい、ハンコを押して保証すると直談判した。しかし星は専門の植林職人でも移植困難な状態であると説明し「ハンコだけでは駄目だ」と拒否したが、本多は怯むことなく「では私の首を賭けましょう」と詰め寄った。
イチョウはその後、本多によって日比谷公園内のレストラン「松本楼」テラス前に無事移植された。近年ではパワースポットとして有名だが、この逸話から地元では「首賭けイチョウ」との異名を持つ。
このイチョウ救出劇の背景には、日比谷公園の設計者が本多自身だったことが大きい。
本多は日比谷公園のみならず、「明治神宮の杜」の造林を担当し、都内の”不毛の地”に「永遠に続く森」をつくるという、ほぼ実現不可能と言われていた計画を成功させている。さらに関東大震災後の東京都の復興計画も担当。肩書きは東大教授だったが、その仕事の実態は、造園、ランドスケープデザイン、ひいては都市計画と広範囲に渡って活躍した。また足尾銅山鉱毒事件では、調査委員会の筆頭委員として現地に入り、公害で荒廃した森や川を見てショックを受ける。この経験から市民と街を守るための「公害や災害に強い樹木」により意識的になった。
東京都が頻繁に水不足に襲われていた当時、水対策として水源林の造林事業に着手したり、乱伐防止のために保安林の指定にも携わった。また将来の地震や火災に備えて、神宮の森をはじめ、都市の街路樹には防火効果のあるイチョウの木を積極的に取り入れたり、防雪林や防砂林を研究した。そこにはドイツ留学時代に学んだハインリッヒ・コッタの「森づくりは科学であり芸術である」という考えや、森林の天然更新を尊重し「自然に帰れ」と言った造林学の権威カール・ガイアーらによるミュンヘン林学の教えがある。
幼年時代は貧困に苦しんだ経験から、研究の傍ら資産形成にも余念がなく、長者番付に入るほどの資産家として名を成し「渋沢栄一のブレーン」や「投資と蓄財の神様」とも呼ばれた。現在の価値にして総額500億円を超える資本を築いたが、晩年にはそのほとんどを教育や公共機関に匿名で寄付し、次世代のために道を切り拓いた。仏教にも造詣が深かった本多は「喜捨」の精神を大切にしていたという。仏教で蓄財は否定されず、むしろ貧しい人や苦しんでいる人に金品を恵むための手段、つまり文字通り”喜んで捨てること”を前提とした徳を積む行為だからだ。
「投資の神様・本多静六」にとっての「投資」は、お金や金融商品による個人の利益だけではなく、自分自身の成長と人生、ひいては街や社会、自然環境と文化の発展を通じて市民の豊かさに還元されるまでを目的とした、極めて壮大なプロジェクトだった。資産をつくることのみならず、お金の使い方にかけても一流だったのだ。
昨年他界した音楽家・坂本龍一が死の直前、東京都庁の小池百合子都知事に請願書をしたためて中止を訴えた、明治神宮外苑地区の再開発工事。約3000本の樹木が伐採される再開発プロジェクトは依然として議論が続いている。
いまから123年前、同じように命を賭して1本の古木を守ろうとした人がいた。日本初の林学博士・本多静六である。
本多が身を挺して守ったのは、日比谷交差点にある樹齢400年と推定される1本のイチョウの木。日比谷通りの拡幅工事で伐採されかかっていた時、たまたま通りかかった本多は烈火のごとく怒って、工事を強引に中断させた。
その後、本多は東京市参事会議長の星亨に会いに行き、自分が自腹を切って日比谷公園に移植するので工事を中止してほしい、ハンコを押して保証すると直談判した。しかし星は専門の植林職人でも移植困難な状態であると説明し「ハンコだけでは駄目だ」と拒否したが、本多は怯むことなく「では私の首を賭けましょう」と詰め寄った。
イチョウはその後、本多によって日比谷公園内のレストラン「松本楼」テラス前に無事移植された。近年ではパワースポットとして有名だが、この逸話から地元では「首賭けイチョウ」との異名を持つ。
このイチョウ救出劇の背景には、日比谷公園の設計者が本多自身だったことが大きい。
本多は日比谷公園のみならず、「明治神宮の杜」の造林を担当し、都内の”不毛の地”に「永遠に続く森」をつくるという、ほぼ実現不可能と言われていた計画を成功させている。さらに関東大震災後の東京都の復興計画も担当。肩書きは東大教授だったが、その仕事の実態は、造園、ランドスケープデザイン、ひいては都市計画と広範囲に渡って活躍した。また足尾銅山鉱毒事件では、調査委員会の筆頭委員として現地に入り、公害で荒廃した森や川を見てショックを受ける。この経験から市民と街を守るための「公害や災害に強い樹木」により意識的になった。
東京都が頻繁に水不足に襲われていた当時、水対策として水源林の造林事業に着手したり、乱伐防止のために保安林の指定にも携わった。また将来の地震や火災に備えて、神宮の森をはじめ、都市の街路樹には防火効果のあるイチョウの木を積極的に取り入れたり、防雪林や防砂林を研究した。そこにはドイツ留学時代に学んだハインリッヒ・コッタの「森づくりは科学であり芸術である」という考えや、森林の天然更新を尊重し「自然に帰れ」と言った造林学の権威カール・ガイアーらによるミュンヘン林学の教えがある。
幼年時代は貧困に苦しんだ経験から、研究の傍ら資産形成にも余念がなく、長者番付に入るほどの資産家として名を成し「渋沢栄一のブレーン」や「投資と蓄財の神様」とも呼ばれた。現在の価値にして総額500億円を超える資本を築いたが、晩年にはそのほとんどを教育や公共機関に匿名で寄付し、次世代のために道を切り拓いた。仏教にも造詣が深かった本多は「喜捨」の精神を大切にしていたという。仏教で蓄財は否定されず、むしろ貧しい人や苦しんでいる人に金品を恵むための手段、つまり文字通り”喜んで捨てること”を前提とした徳を積む行為だからだ。
「投資の神様・本多静六」にとっての「投資」は、お金や金融商品による個人の利益だけではなく、自分自身の成長と人生、ひいては街や社会、自然環境と文化の発展を通じて市民の豊かさに還元されるまでを目的とした、極めて壮大なプロジェクトだった。資産をつくることのみならず、お金の使い方にかけても一流だったのだ。
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