CULTURE
【本と名言365】マイヤ・イソラ|「自由とは、旅において自分自身で…」
November 16, 2023 | Culture | casabrutus.com | photo_Miyu Yasuda text_Keiko Kamijo illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。ポピーが大胆に構成されたマリメッコの柄「Unikko(ウニッコ)」を生み出した、画家でありデザイナーのマイヤ・イソラ。人生かけて旅を続け、絵を描きテキスタイルをデザインした彼女の信条とは。
自由とは、旅において自分自身で物事を進めることであり、会社ではなく自宅で、ひとりで働くことよ。
画家でありデザイナーのマイヤ・イソラ。北欧を代表するブランドである「マリメッコ」に500以上ものデザインを提供し、マリメッコを世界的なブランドに押し上げた立役者の一人だ。ケシの花をダイナミックに配した「Unikko(ウニッコ)」の柄は知る人も多いだろう。
イソラはフィンランド南部の農家の3人娘の末っ子として生まれた。父親は農学者であると同時にアマチュア音楽家でもあり詩人でもあった、母はアクティブな性格でインテリアやファッションにも強い関心があった。「後になって、両親が農場を継いでくれる男の子を欲しがっていたことに気づいた」とイソラは記しているが、幼少期に感じていた、農場で馬に囲まれ自然の近くで働くという気持ちや孤独感は、一生ついてまわることになる。
そして、イソラは13歳で街へ出て一人暮らしを始める。高校時代に戦争を経験し、1945年19歳で結婚、一人娘をもうける。ヘルシンキにある美術中央工芸学校(現在のヘルシンキ芸術デザイン大学)へと進学をする。よき教師、よき友達にも恵まれ、スケッチや絵を描く充実した日々を送っていたが、結婚は続かず1948年に離婚した。
イソラにとって「旅」は創作と人生に欠かせないものだった。1948年の夏、初めての海外旅行を経験する。ノルウェーのオスロだ。レストランで皿洗いの仕事をしながら、自転車を借りて町中をめぐり絵や工芸品を見る日々を送る。
「自由とは、旅において自分自身で物事を進めることであり、会社ではなく自宅で、ひとりで働くことよ。」
これはイソラが自由について語っていた時の言葉だ。学生時代からファブリックを扱う企業プリンテックス社(後にマリメッコ社を誕生させる)のアルミ・ラティアと親交があった。イソラはプリンテックス社の最初の正社員デザイナーとして1949年に就職。その後、マリメッコ社にもデザインを提供するようになるが、イソラは主に自宅のアトリエで仕事をしていた。そして、1961年からフリーランス契約となり、より対等な関係を築いた。ラティアとイソラは時おり波乱は起こしたものの、お互いに多大な信頼を寄せていた。
北欧諸国、フランス、スイス、イタリア、モロッコ、ドイツ、スペイン、ギリシャ、アルジェリア、アメリカなど、一人で自由に世界中を飛び回り、新しい刺激を受け、恋をし、創作に没頭する。時には僻地に暮らしており、ラティアからの連絡が電報のみになるということもあった。
「工業美術(デザイン)が活力を得るには芸術の連携が必要」と言い、旅先で出会った様々な画家たちからインスピレーションを受けて、自身の創作に活かしていた。「私にとって、すべてが現実だってことを実感するためには絵を描くしかないようです」と日記にも綴っているが、創作は彼女が生きる実感を得るための唯一の手段だったのだ。
画家でありデザイナーのマイヤ・イソラ。北欧を代表するブランドである「マリメッコ」に500以上ものデザインを提供し、マリメッコを世界的なブランドに押し上げた立役者の一人だ。ケシの花をダイナミックに配した「Unikko(ウニッコ)」の柄は知る人も多いだろう。
イソラはフィンランド南部の農家の3人娘の末っ子として生まれた。父親は農学者であると同時にアマチュア音楽家でもあり詩人でもあった、母はアクティブな性格でインテリアやファッションにも強い関心があった。「後になって、両親が農場を継いでくれる男の子を欲しがっていたことに気づいた」とイソラは記しているが、幼少期に感じていた、農場で馬に囲まれ自然の近くで働くという気持ちや孤独感は、一生ついてまわることになる。
そして、イソラは13歳で街へ出て一人暮らしを始める。高校時代に戦争を経験し、1945年19歳で結婚、一人娘をもうける。ヘルシンキにある美術中央工芸学校(現在のヘルシンキ芸術デザイン大学)へと進学をする。よき教師、よき友達にも恵まれ、スケッチや絵を描く充実した日々を送っていたが、結婚は続かず1948年に離婚した。
イソラにとって「旅」は創作と人生に欠かせないものだった。1948年の夏、初めての海外旅行を経験する。ノルウェーのオスロだ。レストランで皿洗いの仕事をしながら、自転車を借りて町中をめぐり絵や工芸品を見る日々を送る。
「自由とは、旅において自分自身で物事を進めることであり、会社ではなく自宅で、ひとりで働くことよ。」
これはイソラが自由について語っていた時の言葉だ。学生時代からファブリックを扱う企業プリンテックス社(後にマリメッコ社を誕生させる)のアルミ・ラティアと親交があった。イソラはプリンテックス社の最初の正社員デザイナーとして1949年に就職。その後、マリメッコ社にもデザインを提供するようになるが、イソラは主に自宅のアトリエで仕事をしていた。そして、1961年からフリーランス契約となり、より対等な関係を築いた。ラティアとイソラは時おり波乱は起こしたものの、お互いに多大な信頼を寄せていた。
北欧諸国、フランス、スイス、イタリア、モロッコ、ドイツ、スペイン、ギリシャ、アルジェリア、アメリカなど、一人で自由に世界中を飛び回り、新しい刺激を受け、恋をし、創作に没頭する。時には僻地に暮らしており、ラティアからの連絡が電報のみになるということもあった。
「工業美術(デザイン)が活力を得るには芸術の連携が必要」と言い、旅先で出会った様々な画家たちからインスピレーションを受けて、自身の創作に活かしていた。「私にとって、すべてが現実だってことを実感するためには絵を描くしかないようです」と日記にも綴っているが、創作は彼女が生きる実感を得るための唯一の手段だったのだ。
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