CULTURE
【本と名言365】前川國男|「生えている樹木は…」
October 16, 2023 | Culture | photo_Miyu Yasuda text_Yoshinao Yamada illustration_Yoshifumi Takeda design_Norihiko Shimada(paper)
これまでになかった手法で、新しい価値観を提示してきた各界の偉人たちの名言を日替わりで紹介。日本のモダニズム建築における旗手、前川國男。1932年の処女作をはじめ、その建築の多くがいまなお愛され続けている。なぜ前川建築はスクラップアンドビルドの日本において継承され続けるのか。前川の言葉からそれを読み解いていこう。
生えている樹木はできるだけ伐るな
1928年、建築家の前川國男は大学を卒業した夜に神戸から大連を経て、シベリア鉄道でパリに向かう。目的はル・コルビュジエへの弟子入り。当時のル・コルビュジエは〈母の家〉やパリ万国博覧会で〈レスプリ・ヌーヴォー館〉を発表したばかりの活動初期といえる段階で、スタッフも限られていた。いち早く新しい建築の思想を学んだ前川は第二次世界大戦の前後を通し、日本のモダニズム建築を先駆けて実現していった。
いまも〈江戸東京たてもの園〉で人気の高い前川の〈旧前川邸〉は戦中の1942年に竣工したものだ。残念ながら〈東京海上ビルディング本館〉は解体の最中にあるが、1932年に竣工した処女作〈木村産業研究所〉をはじめ、1950年代の〈神奈川県立図書館・音楽堂(現・前川國男館)〉〈弘前市役所〉、1960年代の〈京都会館(現・ロームシアター京都)〉〈東京文化会館〉〈紀伊國屋ビルディング〉、1970年代の〈東京都美術館〉〈熊本県立美術館〉〈福岡市美術館〉、そして最晩年の〈国立国会図書館新館〉まで、その建築の多くが現役で愛されている。前川に続いてル・コルビュジエのもとで学んだ坂倉準三、さらに前川のもとで学んだ丹下健三ら、同じく日本のモダニズム建築を牽引した後進の建築家に比べ、なぜ前川の建築は残り続けるのだろう。
1965年から2013年まで前川國男のもとでスタッフとして働いた建築家、中田準一は自著『前川さん、すべて自邸でやってたんですね―前川國男のアイデンティティー』で、晩年の前川が所員に「生えている樹木はできるだけ伐るな」と指示していたと回想する。そしてその考えはすでに〈旧前川邸〉に息づいていたと、再建時の責任者として指揮をとった経験から読み解く。〈江戸東京たてもの園〉の〈旧前川邸〉前には大きなケヤキが立っているが、これはもともとの敷地にケヤキがあったことに倣ったものだという。そもそも前川はケヤキに惹かれて〈旧前川邸〉が建っていた土地を購入し、計画を行った。先に挙げた前川建築の多くにはいまもケヤキが寄り添い、時にクスノキやサクラなどと美しい風景を織りなしている。前川は時に建築計画に伴って敷地を移動させ、周辺環境との調和を目指したという。また前川建築の多くには人々の集う広場が設けられており、いまもそこには人が集い、憩う空間として機能している。歳月を経て、ますます前川建築と環境の調和は深まるばかりだ。だからこそ人々の心に深く根差し、愛される。こうしてその建築は時代を超えて愛され続けていく。
1928年、建築家の前川國男は大学を卒業した夜に神戸から大連を経て、シベリア鉄道でパリに向かう。目的はル・コルビュジエへの弟子入り。当時のル・コルビュジエは〈母の家〉やパリ万国博覧会で〈レスプリ・ヌーヴォー館〉を発表したばかりの活動初期といえる段階で、スタッフも限られていた。いち早く新しい建築の思想を学んだ前川は第二次世界大戦の前後を通し、日本のモダニズム建築を先駆けて実現していった。
いまも〈江戸東京たてもの園〉で人気の高い前川の〈旧前川邸〉は戦中の1942年に竣工したものだ。残念ながら〈東京海上ビルディング本館〉は解体の最中にあるが、1932年に竣工した処女作〈木村産業研究所〉をはじめ、1950年代の〈神奈川県立図書館・音楽堂(現・前川國男館)〉〈弘前市役所〉、1960年代の〈京都会館(現・ロームシアター京都)〉〈東京文化会館〉〈紀伊國屋ビルディング〉、1970年代の〈東京都美術館〉〈熊本県立美術館〉〈福岡市美術館〉、そして最晩年の〈国立国会図書館新館〉まで、その建築の多くが現役で愛されている。前川に続いてル・コルビュジエのもとで学んだ坂倉準三、さらに前川のもとで学んだ丹下健三ら、同じく日本のモダニズム建築を牽引した後進の建築家に比べ、なぜ前川の建築は残り続けるのだろう。
1965年から2013年まで前川國男のもとでスタッフとして働いた建築家、中田準一は自著『前川さん、すべて自邸でやってたんですね―前川國男のアイデンティティー』で、晩年の前川が所員に「生えている樹木はできるだけ伐るな」と指示していたと回想する。そしてその考えはすでに〈旧前川邸〉に息づいていたと、再建時の責任者として指揮をとった経験から読み解く。〈江戸東京たてもの園〉の〈旧前川邸〉前には大きなケヤキが立っているが、これはもともとの敷地にケヤキがあったことに倣ったものだという。そもそも前川はケヤキに惹かれて〈旧前川邸〉が建っていた土地を購入し、計画を行った。先に挙げた前川建築の多くにはいまもケヤキが寄り添い、時にクスノキやサクラなどと美しい風景を織りなしている。前川は時に建築計画に伴って敷地を移動させ、周辺環境との調和を目指したという。また前川建築の多くには人々の集う広場が設けられており、いまもそこには人が集い、憩う空間として機能している。歳月を経て、ますます前川建築と環境の調和は深まるばかりだ。だからこそ人々の心に深く根差し、愛される。こうしてその建築は時代を超えて愛され続けていく。
Loading...