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「太陽の塔」の謎に迫るドキュメンタリー映画が公開!
September 26, 2018 | Art | casabrutus.com | text_Naoko Aono editor_Keiko Kusano
今春、48年ぶりに内部公開が始まって話題になった岡本太郎「太陽の塔」。1970年大阪万博の文字通り「顔」となった作品です。見れば見るほど「ベラボー」な造形に太郎が込めた思いとは? 気鋭の監督が迫るドキュメンタリーが公開です。
「得体の知れない怪物がそこにできあがった、みたいな」。「太陽の塔」の設計担当者だった植田昌吾は振り返る。その言葉の通り、今見てもその造形は異様だ。
ドキュメンタリー映画『太陽の塔』では、当時の記録フィルムのほかに岡本太郎記念館館長の平野暁臣、人類学者の中沢新一、美術批評家の椹木野衣、アーティスト集団のChim↑Pom、探検家の関野吉晴らが太郎と「太陽の塔」について語る。チベット言語学者、密教学者、チベット仏教僧侶、考古学者、学芸員といった人々も。監督は1976年生まれの関野光才。もちろん彼は万博をリアルタイムでは見ていないが、実際に「太陽の塔」を見たときにはその大きさと裏側にある「黒い太陽」の冷酷さに驚いたという。
「太陽の塔」の高さは70メートル。これだけのものになると建築家の協力が不可欠だ。彼らは太郎から届いた100分の1の模型のレプリカをつくり、1センチ刻みでスライスして、そこから図面をおこしていったという。設計を担当した植田は「日本人が持っている曲線とは違う」と感じたという。
ドキュメンタリー映画『太陽の塔』では、当時の記録フィルムのほかに岡本太郎記念館館長の平野暁臣、人類学者の中沢新一、美術批評家の椹木野衣、アーティスト集団のChim↑Pom、探検家の関野吉晴らが太郎と「太陽の塔」について語る。チベット言語学者、密教学者、チベット仏教僧侶、考古学者、学芸員といった人々も。監督は1976年生まれの関野光才。もちろん彼は万博をリアルタイムでは見ていないが、実際に「太陽の塔」を見たときにはその大きさと裏側にある「黒い太陽」の冷酷さに驚いたという。
「太陽の塔」の高さは70メートル。これだけのものになると建築家の協力が不可欠だ。彼らは太郎から届いた100分の1の模型のレプリカをつくり、1センチ刻みでスライスして、そこから図面をおこしていったという。設計を担当した植田は「日本人が持っている曲線とは違う」と感じたという。
「寺社仏閣の建築にあるようなそり、むくりといった合理的な線とは違う」というのだ。さらには「決して図面上は美しいものではなかった」とも振り返る。ショットコンクリート技術者だった嵩英雄も「グロテスクだなあ、と思いました」と語る。さらに岡本は「もっと凹凸をつけたい」と言ったという。
「泥の塊を握って投げつけたような形にしたい、というんですね。工業的でない、自然に近いテクスチャーにしたかったのではないでしょうか」(嵩英雄)
「泥の塊を握って投げつけたような形にしたい、というんですね。工業的でない、自然に近いテクスチャーにしたかったのではないでしょうか」(嵩英雄)
「太陽の塔」は丹下健三が設計した「大屋根」を突き破って立っていた。大屋根は「丹下が考えた空中都市のプロトタイプだ」と平野暁臣は言う。これは当時、黒川紀章らが提唱していたメタボリズムの思想と関連するもの。彼らは国土が限られた日本では海上や空中などに構造物をつくり、それを延長していくことが有効だと主張した。また部屋などのユニットを順次入れ替えていくことで社会の変化に対応できる、とした。映画にはその大屋根に開いた穴から「太陽の塔」よろしく顔を出す太郎の写真も登場する。
「穴が開けられたことで、大屋根の裏と表がつながる。つまり、価値観が転覆してしまう」と美術批評家の椹木野衣は指摘する。
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