アンディ・ウォーホルの「もう1つの顔」に出会う展覧会。| 吉田実香のNY通信 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

アンディ・ウォーホルの「もう1つの顔」に出会う展覧会。| 吉田実香のNY通信

現在〈ブルックリン美術館〉で開催中の『アンディ・ウォーホル / 啓示』展。派手で社交家のトリックスターという表のイメージとは裏腹に、じつは母親思いの敬虔なカトリック信者でもあったウォーホル。宗教をモチーフにした作品の数々からその内面を掘り下げる本展を、徹底レポートします!

《Julia Warhola》(1974年)
母ジュリア・ウォーホラと自身のポートレート。ジュリアは猫や天使のイラストをよく描き、息子ともコラボした。
1928年、鉄鋼業の町ピッツバーグで生まれた東欧系移民の子、アンドリュー・ウォーホラ。のちのアンディ・ウォーホルである。敬虔なカトリック教徒の両親のもと毎週教会に通い、信心深い少年へと育っていく。ウォーホラ家が所属するルテニア東方典礼カトリックの教会は、華麗な色彩や装飾に満ちていた。ピッツバーグの冬は鉛色の空と雪に閉ざされ、長く暗い。だが教会の中では一転、色鮮やかなステンドグラスがドラマチックに輝く。その中で香が焚かれ、聖歌が歌われ、聖体礼儀がおごそかに執り行われた。

少年アンディの精神や美意識に深く刻まれたカトリック教とその文化は、ときに色濃く、ときにそれとなく、彼の作品に現れる。たとえば《キャンベル・スープ缶》作品と、聖人のイコンを描いたステンドグラスとの関連性。あるいはマリリン・モンローやジャクリーン・ケネディといった美と悲劇を象徴する女性を、聖母になぞらえたりという事も。

また1960年代、すでにオープンリー・ゲイだったウォーホル。カトリックで罪とされてきたのは言うまでもないのだが、しかも当時はまだLGBTQ+の人権獲得運動における転換点となった、1969年の「ストーン・ウォールの反乱」以前。当事者への抑圧や暴力的な差別、本人たちが抱く強烈な罪悪感は、LGBTQ+が一般的にも語られるようになった現代に生きる人々には、なかなか想像しきれないものがある。ウォーホルはそんな昔から、カトリックのビジュアルモチーフをクィアな欲望と共に昇華させたポップアートを生み出してきた。その意味においても、彼は先駆者だったのだ。
展覧会のエントランス。中央の赤い写真が、ウォーホルが通った教会だ。
《アンディ・ウォーホル / 啓示》展に向かうエントランスホールの壁をびっしり覆うのは、バチカンのサン・ピエトロ広場を埋めつくすカトリック信者の群衆だ。よく見ると、アンディ・ウォーホルの姿が! だが写真が撮られたのは1955年。ウォーホルのバチカン初訪問は1963年、という事は合成写真。何とも人を食ったビジュアルで出迎えられる。そして目に入るのが、ウォーホルが通った教会の写真だ。20世紀初頭の撮影というから、彼の父母が今のスロバキアから移住してきた頃である。
壁紙のどこかにウォーホルが?
最初に現れるセクション「移民のルーツと信仰」では、子どもの頃から大切にしていた十字架やキリスト像、少年時代に描いた食卓の絵などが登場する。また母親ジュリアによる天使のイラストレーション、そして母と息子のポートレートも。

質実剛健で信仰深い移民の両親に育てられた内気な少年は、NYでウォーホルと改名し、華やかなペルソナをかぶって時代の寵児となっていく。派手で最先端のライフスタイルを謳歌しつつ、一方では最愛の母をピッツバーグから呼び寄せ、約20年にわたり同居したという孝行息子な顔も持つ。

ちなみに彼は毎朝、日課のお祈りを母親と捧げてからスタジオ〈ファクトリー〉に出勤したという。〈ファクトリー〉といえば当時の最先端をいくクリエイティブな人々が自由に出入りした場であり、背徳的な美を象徴するデカダンなコミュニティでもあった。息子と母親が静かに手を合わせるイメージは、〈ファクトリー〉やウォーホルのペルソナとは180度食い違う。しかしアート界のスーパースターになろうとも、その本質は「信心深い労働移民の息子」。矛盾ではなく、むしろそれが原点だったことを展示品は教えてくれる。
ウォーホル私物の十字架やキリスト像。19世紀の品、作者不詳。
続く「マドンナとマグダレのマリア:ウォーホルと女性たち」のセクションでは、母ジュリアのポートレートやイラストレーション、マリリン・モンロー、ジャクリーン・ケネディを題材にした作品が並ぶ。
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