村上隆のコレクション展で現代美術史考。 | ページ 2 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

村上隆のコレクション展で現代美術史考。

〈熊本市現代美術館〉で村上隆のコレクション展が開催されている。日本の現代美術から陶芸まで、戦後日本の現代美術を再検証。「バブルラップ」と名付けられた展示とは?

さて、熊本市現代美術館の展示を見ていこう。

会場入口正面には、空山基(1947年−)《Sexy Robot_Walking》。1999年にソニーの犬型ロボット「aibo」一号機のデザインを手がけたことで名前を記憶されているかもしれないが、空山は80年代、スーパーリアリズムイラストレーションで一世を風靡した。画集が何冊も出版され、集英社の月刊誌『サムアップ』(1984年創刊。現在、休刊)創刊号の表紙イラストレーションを手がけた(わたせせいぞうものちに同誌の表紙を担当している)。海外での空山の人気は高く、最近ではディオール オムのデザイナーであるキム・ジョーンズが空山のファンであると語り、ショウにも取り入れている。
荒木経惟《センチメンタルな旅》 1971/2015年(右、左、奥上)、《冬の旅》1989/2015年(奥中)、1990/2015年(奥下)(c) Nobuyoshi Araki, Courtesy of Taka Ishii Gallery, Tokyo
続いて、荒木経惟(1940年−)の「センチメンタルな旅・冬の旅」からの大伸ばしプリントが目を引く。荒木は電通勤務時代に知り合った妻、陽子と1971年に結婚。結婚式と4泊5日の新婚旅行をニコンFと20ミリレンズで18本のフィルムに収め、『センチメンタルな旅』という私家版写真集を1,000部限定で出版(2016年、河出書房新社が限定復刻)。1990年に陽子が亡くなるその葬儀の前後に写真を合わせ写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』として新潮社から1991年に出版した。このシリーズと直接の関係はないが、荒木が最も華々しく活躍した雑誌が白夜書房『写真時代』(1981年創刊。1988年4月号にて廃刊)だった。80年代、『写真時代』とアラーキーの勢いは留まることがなかった。

バブル期の美術に関するニュースで今でも語り草になるのが海外オークションでの日本企業、日本人による美術品の高額落札で、87年、安田火災海上保険(当時)がゴッホ《ひまわり》を約53億円で落札、大昭和製紙(当時)のオーナーが90年、ゴッホ《医師ガシェの肖像》を約125億円で、ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》を約119億円で落札したことだ(落札額はいずれも当時のレート)。
日比野克彦 手前から:《GRAND PIANO》1984 年(熊本市現代美術館蔵)、《BIKE》1984年(作家蔵)。(c) Katsuhiko Hibino
もの派とスーパーフラットの間には、ファインアート的なムーヴメントは落ち着いていたものの、イラストレーションや新しいグラフィックデザインの時代があった。カラーページの多い雑誌、たとえば『ビックリハウス』(パルコ出版。1974年−1985年)、『STUDIO VOICE』(STUDIO V、のちにINFASパブリケーションズ。1976年−2009年)、『POPEYE』(平凡出版、社名変更によりマガジンハウス。1976年−)、『BRUTUS』(同。1980年−)、『Hot-Dog PRESS』(講談社。1979年−2004年)などや広告がイラストレーターやデザイナーの活躍の場であった。

西武百貨店、パルコ、伊勢丹など流通業界がイラストレーションの展覧会やコンテストを開催したり、店舗ディスプレイに起用したりした。もともと当時の百貨店は店内に美術館を持ち、印象派展や日本美術の展覧会を開催し、集客するという特に日本独特のシステムがあり、美術は百貨店の有力コンテンツである。古典だけではなく同時代のグラフィック文化も参入してきたわけだ。

そんな時代のスーパースターが日比野克彦(1958年−)だ。村上によれば日比野は、ジュリアン・シュナーベルやジャン=ミシェル・バスキアらのニューペインティングやグラフィティの影響を受けているとし、ダンボールという安価でどこででも手に入る素材を使っていることがバブル時代にあって、対比的、示唆的とするが、日比野がダンボールで作品を作り始めたのは1980年前後なので、バブルとは関係がない。しかし、本展のタイトルに用いた「バブルラップ」は同様に安価な緩衝材の名称がもとだ。
大竹伸朗 左から《phenorama 10》1992年、《Hong kong》1980年、《網膜/境界景 2》1990/2015年、《網膜/境界景 5》1990/2015年。(c) Shinro Ohtake, Courtesy of Take Ninagawa, Tokyo
本展では、村上の活躍前夜ともいえる時代の作品が多く並び、興味深い。なぜかというとそれは村上の雌伏の時期を、あるいは村上の怨念を感じるからだ。森村泰昌(1951年−)、川俣正(1953年−)、大竹伸朗(1955年−)…。いずれも村上より年長ではあるが村上がデビューするにあたって、彼らの活動や作品を参考にし、なにかの形で影響を受けたはずである。

「彼らは息をするように作品を作っていれば、世界の人は見てくれて当然であると考えて活動をしているように見えた」と村上は言う。村上はそこまで楽天的ではなかったし、それが正しかった。

前掲『現代美術コテンパン』の中でトム・ウルフは画家、バーネット・ニューマン(1905年−1970年)のこんな言葉を引いている。「美術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」。確かに鳥は鳥類学を体系化したりはしないだろう。しかし、そんな話をしたニューマンは実は大変な理論家なのであるが。村上はプロデュースに抜群の力を発揮した。制作と理論構築がどちらも高いレベルにないといけないと気づいていた彼だけが、圧倒的勝利を獲得したことを今は理解できる。
中原浩大(1961年−)、岡崎乾二郎(1955年−)、中村一美(1956年−)、小林正人(1957年−)らの作品の展示。