孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート | ページ 2 | カーサ ブルータス Casa BRUTUS

孤高の建築家、白井晟一の謎に迫る展覧会|青野尚子の今週末見るべきアート

哲学を学びにドイツに留学し、独学で建築家になり、日本建築らしからぬ石の塊のような建物を作る。白井晟一は近代日本建築の系譜の中でも異色の存在です。謎めいた彼の生涯を追う展覧会に出かけてみましょう。

白井が手がけた装幀の数々。「妙法」の書も白井自身によるもの。白井は55歳ごろから書に取り組む。彼にとって書は、空間への思索を深める手段でもあった。
群馬県に現存する〈松井田町役場〉。「パルテノン」との異名もあるが、白井本人はパルテノン神殿よりも浅間山や妙義山との関係性を意識していたという。
白井の生涯を決定づけるキーパーソンに義兄、近藤浩一路がいる。近藤は白井より20歳ほど年長の人気日本画家であり、白井の渡欧前に彼の姉と結婚していた。白井が初めて設計に関わった建物はこの近藤の自邸であり、その後も近藤が引っ越したり、あるいは戦災などで家を失う度に彼の家を手がけている。

挿絵の仕事でも知られた近藤は白井に中央公論社社長の嶋中雄作を紹介したらしく、嶋中や彼の親友たちが白井に別荘などを依頼している。これがきっかけになったのか白井は戦後、「中公文庫」の表紙の鳥の絵など、装幀の仕事も手がけた。
秋田県のプロジェクトが展示されたコーナー。左3点は現存しない〈横手興生病院〉のスケッチや外壁の部材、写真。右2点はその近辺に建てられた〈昨雪軒〉の写真と照明。外観は木造だが、積雪を考慮した鉄筋コンクリート造の住宅だ。
戦後の白井は秋田県に「稲住温泉」別棟〈浮雲〉や〈秋ノ宮村役場〉、〈四同舎〉(湯沢酒造会館)など、まとまった数の建築を残している。これも戦時中、近藤とともに秋田県に家財道具を疎開させてもらっていたことが縁になったという。また白井は1954年に建てられた群馬県前橋市の書店〈煥呼堂〉(かんこどう)の仕事を通じて多くの文化人と交流している。この時期に手がけた個人住宅は、ここでのネットワークがもとになったものが少なくない。
〈秋ノ宮村役場〉模型。大きな屋根が左右に広がる独特のプロポーションが美しい。この建物は取り壊しの危機にあったが、白井がいくつかの建物を手がけた「稲住温泉」当主一族の尽力により、同温泉の敷地内に移築された。
戦前に白井が手がけた住宅は北ヨーロッパのハーフティンバー様式を取り入れた、どちらかというと洋風のものが多い。が、戦後になると木造和風建築が目立つようになる。それについて彼は「数寄屋建築についての研究に没頭したが、そうやって勉強した伝統手法とは全く違った自由な出発を意図していた」といった意味のことを言っている。また1979年に刊行された自著『無窓』では「われわれが欲しいものは最高の借り物でなく、最低の独創であるべき」とも書いている。「日本の手本があろうと、ヨオロッパの手本があろうと、他力本願で『創造』はできない。(略)それが創造の倫理というものだ。」というのだ(同書より)。孤高の語がふさわしい彼の作風はこんな態度から生まれている。
大村健策による「原爆堂計画」ドローイング。水面に映る影の揺らぎも描き込まれる。会場では、実現しなかったこの計画をCGで再現した映像も見られる。
〈煥呼堂〉。白井が設計した建物は現存しないが、旧〈煥呼堂〉にあったラテン語で「知識の泉」と書かれた蛇口は現在の〈煥呼堂〉新館に受け継がれている。また同様の蛇口が〈渋谷区立松濤美術館〉にもある。
白井は結局、独学で建築を学び、一級建築士などの資格をとることもなかった。その彼を支えたのが広瀬鎌二ら建築家たちだ。広瀬は秋田県の〈秋ノ宮村役場〉などの設計を手伝った可能性がある。1950~60年代にはドラフトマン、大村健策が白井と協働している。有名な「原爆堂計画」などの精緻なドローイングは大村の手によるものだ。

この「原爆堂計画」は丸木位里・俊夫妻の《原爆の図》を展示する美術館建設計画に感銘を受けた白井が、自発的に取り組んだもの。硬い鉛筆で緻密に描かれた大村のドローイングは、白井の精神性をも表現している。
会員プログラム

登録者数12,000人突破!

建築家のアトリエ見学/名作家具プレゼント/限定メールマガジン…すべて無料。

建築家のアトリエ見学に、名作家具プレゼントも。

いますぐ登録!